間村
つじまむら
[現在地名]日出町豊岡
唐木山(五九九・七メートル)を主峰とする鹿鳴越山塊の南の扇状地に位置し、北は鹿鳴越の稜線を境に山香郷野原村・日指村(現山香町)、東は日出村、西は南畑村、南西は小浦村。南は別府湾に面する。江戸時代を通じ相給村で、森藩領を西辻間村、日出藩領を東辻間村(元禄二年津島村と改称)とよんだ(図跡考)。豊前道(鹿鳴越)が通り、日出城下への道(日出城路)が分岐する。
〔中世〕
中世にも辻間・津島の両表記でみえ、豊後国弘安図田帳には大神庄一七〇町のうち「日出・津島七十町 地頭職相模守殿」とある。なおここでは大神庄内とされているが、のちの史料では日出庄内となっている。鎌倉幕府滅亡後、この一帯は戸次氏に与えられたが、戸次氏が南朝方に付いたため所領は没収され、田原貞広に与えられた(文和元年一一月二二日「足利義詮袖判下文」入江文書)。貞和五年(一三四九)戸次氏が北朝方に戻ったため、日出庄半分(東方)は返却されたが(同年七月二二日「豊後守護大友氏時知行預ケ状案」同文書)、西方(辻間村)は田原氏の所領として残り、田原惣領家田原氏能・親貞と伝えられた(年未詳一一月日「田原親貞本領・恩賞地等目録」大友家文書録など)。しかし室町期の親幸の代には、守護大友氏の領国体制が強化され、守護家から辻間村の支配権を安堵されるようになる(応永二二年九月二三日「大友持直知行宛行状」広瀬家史料館所蔵文書など)。応永三二年(一四二五)と推定される一〇月一三日の大友持直知行預ケ状(草野文書)によれば、辻間村は八〇町の田数があり、鎌倉時代から比べるとかなり水田開発が進んだようである。その後、一五世紀後半には田原氏の支配権はほとんど失われたようで、大友氏が辻間村を直接支配するようになり、村内部の土地には給人が置かれた(文明一一年一一月四日「辻間村支配土代」城内文書)。これらの給人に与えられた名田としては武清・鬼丸・貞清・則清・津留・重真・薬師丸・是永・末正・是次・山口・辻堂・光安・是治・秋国門・是貞・徳勢・萩尾・大王・秋太郎丸・秋厚・秋里・秋六郎丸・秋乙丸・末宗・切畑・氏清・金江田・竹原・日野・荒保佐などがある。江戸時代の辻間村域の字に末政・薬師丸・津留・是永・山口・日野・国門・小畑・乙丸・鬼丸・是貞・萩尾などがあり、中世の辻間村は江戸時代の辻間村にほぼ相当すると考えられる。
間村
はざまむら
[現在地名]土佐山田町間
影山村の東方、片地川北岸とその支流の谷沿いに位置する。西から古馬地・鴻巣・高棚の三つの山があり、集落は西部の片地川沿いに東間・西間、古馬地と鴻巣両山の間の谷に日裏、鴻巣と高棚両山の間の谷に牛造がある。日裏集落からは明戸峠(二八〇メートル)を越えて萩野村(現香北町)に出るが、この道は高知城下方面より韮生郷(現香北町・物部村)に出る要道であった。また牛造より押人峠を越えると岩改村(現香北町)北部へ出た。片地郷(村)一三ヵ村の一であるが、元禄郷帳などでは影山村の枝村とされる。明治初年片地村となる。
間村
あいだむら
[現在地名]人吉市西間下町・西間上町・浪床町・東間下町・東間上町・蓑野町・古仏頂町・木地屋町・東大塚町
胸川およびその支流の形成する谷や河岸段丘に集落があり、北は人吉城下、南は鹿児島藩領大口(現鹿児島県大口市)と日向領に接し、東は田代村・大畑村、西は西裏村と接する。慶長国絵図に五四二石余とある。寛永一一年(一六三四)の郷村高辻帳に「間之村」とあり、本田高八三五石余、新田畠高四九三石四斗余とある。同一八年の検地帳による田畑構成は、上田二八町二反二畝余・中田三四町三反一畝余・下田四三町五反一畝余、上畑三反二畝余・中畑一町四反三畝・下畑八町六反六畝余・野畑二町二反一畝余・山畑なし、屋敷四町五反五畝、合計一二三町二反三畝余、分米高一千一五一石余であった。
間村
はさまむら
[現在地名]柳川市間
田脇村の北にある。三潴郡に属し、北は一木村・新田村・紅粉屋村(現大川市)。南西は有明海に面する。承久三年(一二二一)九月二八日の高良玉垂宮定額僧并供僧注文(御船文書/鎌倉遺文五)には三潴庄鎮守大善寺玉垂宮(現久留米市)の金光明経供僧の料田一丁として間村がみえる。永仁四年(一二九六)一二月日の玉垂宮并大善寺仏神事注文(御船文書/鎌倉遺文二五)によると、間村は上分米・相撲・九月会頭、冬祭使料一石二斗を勤めており、貞和三年(一三四七)九月二三日の高良宮祭料米色々神役村々注文写(同文書/南北朝遺文(九州編)二)でもほぼ同様の所課が確認できる。
間村
くずまむら
[現在地名]木更津市久津間・岩根一丁目・同四丁目・西岩根
万石村の南西にあり、小櫃川河口左岸を村域とする。久津間村とも書いた。西は江戸湾に面し、安藤広重の「天保十五年弥生の旅」三月二四日条に「久津間道、左に海辺見晴しよし」と記される。天正四年(一五七六)と推定される三月二八日の北条氏規朱印状(山本文書)に小田原北条氏の半手所領として「葛間」とみえ、敵対する北条氏と里見氏の双方に年貢を半分ずつ納めている。
間村
あしまむら
[現在地名]金砂郷村芦間
山田川の下流東側にあり、天下野街道(水戸―八溝道)が村内を南北に縦貫する。南は玉造村。佐竹知行目録(彰考館蔵)に無年号であるが「芦間之内和久村 滑川式部少輔」、天正一八年(一五九〇)の項に「稲木足満東連寺合十五貫文 皆川左馬佐」とみえる。寛永一二年(一六三五)の水戸領郷高帳先高に「芦間村」と記される。明治九年(一八七六)の「区用録」(宮本精一氏蔵)によると村高は五七八石余、戸数五八、馬数四〇であった。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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