関ヶ原宿(読み)せきがはらしゆく

日本歴史地名大系 「関ヶ原宿」の解説

関ヶ原宿
せきがはらしゆく

[現在地名]関ヶ原町関ヶ原

中山道六七宿の一で江戸より五九番目の宿場になる。東の垂井たるい宿からは一里一四町、西の今須います宿までは一里。当宿は伊勢街道および北国街道の分岐点で、南東の伊勢街道牧田まきだ宿(現養老郡上石津町)へは烏頭うとう峠を越えて一里、北西の北国街道たま宿へも一里の里程であった。

〔成立と規模〕

中山道に宿駅伝馬制がしかれた慶長七年(一六〇二)から宿整備が進められたと考えられ、同年の近江小野町中宛奈良屋・樽屋連署状(関ヶ原町歴史民俗資料館蔵)には関ヶ原町衆とあり、当町衆の荷物往来に関する記事がみえる。同五年の徳川家康禁制朱印(同館蔵)にも関ヶ原町衆中とあり、すでに交通の要衝として町場化が進んでいたことが知られる。同八年には老中大久保忠隣以下一一人の幕府要人の署名した伝馬手形(同館蔵)が当宿に通達されている。延宝八年(一六八〇)の宿高一千九〇四石、町の長さ一一町三〇間、家数二八六(うち町並家数一八七)・人数九八四、馬役五〇軒・歩行役九四軒・半役六一軒・問屋六軒。一年間の上下した人馬相立数は馬三千六二一(宿馬三千一三五・助郷馬二九六・雇馬一九〇)、人足は一千五八二(宿人足一千二五六・助郷人足七六・雇人足二五〇)であった(「書上」奥田文書)。元禄一六年(一七〇三)の書上(同文書)では町の長さは東西一二町四九間、人数一千二五二・家数三四七、馬役五〇軒・歩行役一三五軒・半役四〇軒・諸役人一七軒。前年の上下人馬相立数は馬二万一千七五二(うち宿馬一万九千八三二・助郷馬一千一九五・雇馬六八〇)、人足は七千八二〇(宿人足六千一五二・助郷人足一千六六八)。天保一三年(一八四二)には人数一千三八九・家数三五一、うち馬役二七軒・歩行役二九二軒(「書上」関ヶ原町歴史民俗資料館蔵)

寛政年間(一七八九―一八〇一)中山道分間延絵図には東西に長い宿の景観が描かれ、東の野上のがみ村境に御料示杭が建ち、ひがし町・公門くもん町・なか町・西にし町と続く町並であった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報