阿川村(読み)あがわむら

日本歴史地名大系 「阿川村」の解説

阿川村
あがわむら

[現在地名]神山町阿野あの

広野ひろの村の西、鮎喰あくい川中流域とその支流広石谷ひろいしだに川の流域に位置し、わずかな平地と山腹に開かれた段々畑に集落と耕地が点在する。南は鬼籠野おろの村と神領じんりよう村、西は左右内そうち村、北は麻植おえ敷地しきじ(現鴨島町)など。慶長一四年(一六〇九)五月九日の大粟谷下山分阿河村検地帳(神山町旧村役場文書)によると田二町二反余・畠七町六反余・居屋敷五反余で、分米合六七石余。ほかに寛永六年(一六二九)以降文化四年(一八〇七)までの検地帳三三冊が残る(同文書)。寛永前期のものと推定される国絵図に「あかう村」、同一五―一八年頃の作製と推定される阿波国大絵図に阿川村とみえる。正保国絵図には阿河村とみえ、高一八八石余、「あかう」と読みを付す。寛文四年(一六六四)の郷村高辻帳には「あがう」と振仮名があり、田方七一石余・畠方一一七石余、芝山注記がある。


阿川村
あがわむら

[現在地名]豊北町大字阿川

豊浦郡北端に位置し、東は大浦おおうら岳を境に粟野あわの村、南は西にしヶ嶽・石峠いしとうげかまみねをもって滝部たきべ村、西は山田やまだ山をもって神田下かんだしも村に接する。北は油谷ゆや湾に面して向津具むかつく半島(現大津郡油谷町)を望み、円く阿川湾を抱く。村の中央を沖田おきた川が流れて沖田平野が開け、東と西に赤崎あかさき川・立目たちめ川があって、いずれも小平野を形成する。萩藩領で先大津宰判に属す。

中世は阿川別府ともよばれたようで、応永二四年(一四一七)長府ちようふ(現下関市)日頼寺文書には

<資料は省略されています>

とあって、阿川別府潮音ちようおん寺領が大内盛見によって認証されている。しかし村の起源はもっとさかのぼるようで、山口市大字秋穂二島あいおふたじまの阿川家系図によると、「伊佐十郎(秀綱)阿川を領し苗字を阿川とす。寛元二年九月三日歿」とあり、鎌倉末期には村落の形成があったのであろう。寛正二年(一四六一)の大内家壁書の山口分国中到着及び請文日数のなかにも、阿川の地名がある。また年号不詳の内藤小源太家文書の「防長の内隆春分領惣田数之事」(「閥閲録」所収)に「阿川郷」とあり、その「人給方」には「阿川別府 一所六拾石足 阿川左衛門尉」とある。


阿川村
あこうむら

[現在地名]富来町阿川

富来川上流右岸の山村で、対岸は楚和そわ村。垣内西灯にしとぼしがある(三州地理志稿)。領主の変遷は楚和村に同じ。正保郷帳では楚和・尊保そんぼ村と合せて高付される。六拾四ヵ村明細記(安成寺文書)によると元和六年(一六二〇)の検地高一三六石、明暦二年(一六五六)の手上高五石、享保九年(一七二四)の手上高一石、免四ツ七歩、小物成は山役九〇目・苦竹役一匁・鳥役二匁、家数一二(うち頭振一)。文化一二年(一八一五)の租税納付状(坂口文書)によると高一四三石、免二ツ一歩三厘、小物成は口米一石余・山役一貫五〇〇文・苦竹役一六文余・夫銀一貫五六八文余。鎮守の少彦名すくなひこな神社は明治四二年(一九〇九)楚和の春日社、灯の少彦名社を合祀して三像さんぞう神社と改称(富来町史)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android