阿波・淡路両国絵図〔阿波国〕(読み)あわ・あわじりようこくえず〔阿波国〕

日本歴史地名大系 の解説

阿波・淡路両国絵図〔阿波国〕(慶長期の成立と推定される国絵図)
あわ・あわじりようこくえず〔阿波国〕

寸法 二一一×一八五センチ(彩色)

成立 不明

原本 国立国文学研究資料館史料館所蔵蜂須賀家文書

写本 徳島大学附属図書館

解説 寛文四年閏五月の郡再編以前の一三郡が示される古図。作製時期は不明だが、徳島城下の福島が「地きれ」と表記され、安宅島(船屋)が現在の常三島付近に位置していること、「撫養」「わき」「富岡」など阿波九城の所在地が丸型で表現されていること、讃岐街道が三好氏居城であった板野郡勝瑞を経由する古いルートを通っていることなどから、江戸時代初期の作製とみられる。また村形地名は村名下字・高を欠き、山間部の村についての記載がほとんどなく、「里の海士」「かなまる」といった中世地名の名残がみられ、絵図仕立てが稚拙な点など、慶長九年の幕府の調進命令に際して作製された他国の国絵図との共通点も多い。ただし勝浦郡の大松村や本庄村などは古名(平松村・桜間村)記載がないなどの問題(勝浦郡のみ)もある。なお蜂須賀家文書および徳島大学附属図書館に所蔵される作製時期の異なる阿波国絵図七鋪のうち、当絵図についてだけは対となる淡路国絵図が確認できない。蜂須賀家が淡路国を拝領したのは元和元年であり、当絵図はそれ以前に作製された可能性が高い。なお徳島大学本は江戸時代の写本とみられ、西辺部を欠損している。


阿波・淡路両国絵図〔阿波国〕(寛永前期の成立と推定される国絵図)
あわ・あわじりようこくえず〔阿波国〕

寸法 二七五×二〇〇センチ(彩色)

成立 不明

原本 国立国文学研究資料館史料館所蔵蜂須賀家文書

解説 寛文四年閏五月の郡再編以前の一三郡が示される古図。当絵図の特徴は、村形内の村名下字に「村」あるいは「浦」が添えられ、村数が七五七ヵ村と著しく多いことである。とくに山間部での村形表示が詳細で、その多くは中世起源の名を単位とする。街道筋には一里山は図示されていないが、「上浦より徳島迄三里四拾町四拾八間」というように地点間の里程が図中に小書きされ、渡河点が「舟渡り」と記されている。さらに三好氏・土佐(長宗我部)氏の「城所」や阿波九城を示す「古城」も図示されている。当絵図も作製年代が不明であるが、対をなす淡路国絵図では須本(洲本)城が「城」、由良・岩屋の両城が「古城」、洲本城下が村形で示されていることから、寛永八―一二年の由良引けの途上にあることが推察される。寛永一〇年五月に西国巡見使による阿波・淡路両国の巡察が行われていることから、この時期に作製された可能性がある。


阿波・淡路両国絵図〔阿波国〕(正保国絵図)
あわ・あわじりようこくえず〔阿波国〕

寸法 四〇二×三五五センチ(墨色)

成立 正保三年一二月一日

原本 国立国文学研究資料館史料館所蔵蜂須賀家文書

解説 天保期の阿波国絵図(国立公文書館蔵)を除いて唯一作製年の判明する阿波国絵図。端書の高目録に示された郡色分けの凡例には文字で色が指定されているので、幕府提出用の正保国絵図の下図とみられる。当絵図も寛文四年閏五月の郡再編以前の一三郡が示される古図で、分間(縮尺)は六寸一里(約二万一千六〇〇分の一)。絵図中の交通注記は正保四年の海陸道度帳とほぼ同内容で、一里山や他国境の峠道、川中の舟渡・徒渡のほか、とくに海上航路が朱線で示され、瀬戸や川口部の状況についての注記が詳細である。「阿淡年表秘録」の正保三年の項にも、「今年、御両国絵図且御城下之図郷村帳御家中分限帳依台命御指出」と記されている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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