淡路国(読み)アワジノクニ

デジタル大辞泉 「淡路国」の意味・読み・例文・類語

あわじ‐の‐くに〔あはぢ‐〕【淡路国】

淡路

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日本歴史地名大系 「淡路国」の解説

淡路国
あわじのくに

現兵庫県の南端に位置する。明石・紀淡きたん鳴門なるとの三海峡で本州および四国から隔てられている。瀬戸内海最大の島で、古くから一国をなしていた。古代は南海道の一国で、「和名抄」東急本国郡部に「阿波知」の訓がある。地形は北部から中央部へかけて北淡ほくだん山地・先山せんざん山地と低平な西淡せいだん丘陵地、南部に諭鶴羽ゆづるは山地があり、同山地の北西に三原みはら地溝低地が延びる。この三原低地が淡路で最も広い平野をなし、文化の早く開けた地域である。三原の平野を中心とする淡路島の南西部が三原郡、それ以外の地が津名つな郡で、淡路はこの二郡からなる。

古代

〔国名表記〕

淡路の表記は、文献上では「古事記」の神代巻に「淡道之穂之狭別島」とあるのが古く、「淡道」は同書全体で六例、「万葉集」では巻三に収める柿本人麻呂作歌に「粟路」とあり、「日本書紀」では「淡道」「粟路」は一例もなく、「阿波」など一字一音の仮名表記を除くと、すべて「淡路」で統一されている。ところが近年藤原宮跡出土木簡に「粟道」の表記がみられた。おそらくこれが最古の表記で、粟道―粟路、淡道―淡路と変化して「淡路」に落ちついたのであろう。阿波国は「古事記」に「粟国」、「国造本紀」に「粟国造」とあって粟の字で表記するのが古いと考えられるから、淡路の名称は従来からいわれていたように、本州から阿波へ行く通路という意味としてよいであろう。

〔古墳時代の淡路〕

淡路では弥生時代には多数の銅鐸が出土したが、古墳時代は前期・中期の古墳がほとんどなく、前期古墳の可能性があるのは、三角縁神獣鏡が出土したと伝えられる洲本市のコヤダニ古墳が知られるだけである。それも大正末年に発見され、天井石三個で覆われた小型竪穴式石室から、玉類・土器とともに出土したと伝えるだけで詳細は不明である。この島の古墳の多くは後期の横穴式石室を主体とし、ほかに少数の箱式石棺があり、年代は六世紀半ば以降と推測される。大型の古墳も少なく、最大の横穴式石室は南淡なんだん町の西山北にしやまきた古墳であるが、全長約七・九メートル、玄室の長さ約四メートル、高さ約二・三メートルで、目立つ大きさではない。特色は漁業とかかわりの深い人たちの古墳と思われるものの存在である。昭和三五年(一九六〇)・同三六年に調査された西淡町の沖の島おきのしま古墳群で、軽石うき・土・鉄釣針・イイダコ壺など漁具が副葬されていた。古墳のこのような存在状態は、淡路では漁業は発達していたが、有力な豪族は存在しなかったことを推測させる。

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改訂新版 世界大百科事典 「淡路国」の意味・わかりやすい解説

淡路国 (あわじのくに)

旧国名。淡州。現在の兵庫県南部の淡路島。

南海道に属する下国(《延喜式》)。《古事記》は淡道,《日本書紀》は淡路と書く。阿波(粟)国へ行く道の意味であろう。瀬戸内海交通上の要地でもある。記紀の国生み神話では,ほとんどの所伝が第一に淡路島が生まれたとする。また反正天皇が淡路で生まれたこと,淡路出身の和知都美(わちつみ)命の女が孝霊天皇の妃となったこと,仲哀天皇のとき淡路屯倉(みやけ)を定めたこと,履中,允恭両天皇が淡路で狩りをしたことなどが見える。その多くは史実とは思われないが,淡路が大和朝廷と密接な関係にあったことを示すものである。律令制下では天皇の食料を供給する国とされ,〈御食都国(みけつくに)〉と呼ばれた。淡路の海人(あま)も著名で,淡路御原の海人,淡路野島の海人のことが《日本書紀》に見える。漁業だけでなく,航海にも活躍したのであろう。令制下では,三原,津名の2郡がおかれたが,三原郡に阿万郷がある。国府,国分寺も三原郡(現南あわじ市,旧三原町)におかれた。8世紀中期以後は淡路は皇族の配流の地となり,淳仁天皇,不破内親王,早良(さわら)親王らが流された。
執筆者:

鎌倉時代の初め,武蔵の豪族横山時広が淡路守護となったらしいが,やがて近江の名族佐々木経高が阿波,土佐とともに3ヵ国の守護を兼ねた。経高は淡路国司の国務妨害,京都騒擾などの罪によりいったん解任され,横山時兼が守護となったが,時兼は和田の乱(1213)で没落し,経高が守護に復した。しかし承久の乱(1221)に際し,たまたま大番役で在京していた経高は京方に加わり,自殺を遂げた。淡路の地頭は大部分土着の在庁官人,荘官などの後身であったが,多くは守護の経高とともに京方となって滅び,その跡に戦功のあった関東御家人などが配置された。乱の翌々年の1223年(貞応2)幕府の命によって作られた〈淡路国大田文〉によると,国領13ヵ所中8ヵ所,荘園23ヵ所中15ヵ所で地頭が改替され,幕府の支配権が承久の乱を境として大きく伸びたことがわかる。守護には下野小山氏の一族長沼宗政が任ぜられ,前守護佐々木経高の守護領を引き継いだ。これらの守護領はすべて国領にあるが,津名郡に1ヵ所,三原郡に4ヵ所で,国衙のあった三原郡に支配の重点がおかれていた。長沼氏はさらに津名郡に2ヵ所の守護領(うち1ヵ所は荘園)を増やすなど,しだいに勢力を広げ,守護職を世襲して鎌倉末におよんだ。

 南北朝内乱に当たり,足利一門の細川師氏が1336年(延元1・建武3)淡路守護となり,その兄細川頼春の援助を受けて南朝方の制圧に当たった。やがて師氏の子氏春が守護職を継ぎ,53年(正平8・文和2)賀集荘に侵入した南軍を駆逐し,73年(文中2・応安6)には〈南方退治大将〉として淡路の国人を率いて畿内に渡り,南朝長慶天皇の河内国天野の行宮を占拠した。師氏,氏春の子孫は守護職を世襲し,洲本と福良のほぼ中間に当たる淡路島の中央部の養宜館(やぎやかた)に拠って国内を支配した。この守護細川氏の被官となって台頭したおもな国人として広田氏,菅氏,船越氏などがあったが,ことに大坂湾,瀬戸内海の海上交通路の確保という重要任務を帯びたのは淡路水軍であった。その最も有力なものは,紀伊牟婁郡から出て,由良に本拠を構え,しだいに洲本,炬口(たけのくち)などに拠点を築いた安宅(あたぎ)氏の一族であった。また梶原景時の子孫と称する沼島の梶原氏の活動も盛んであった。細川氏が嫡流,庶流数家で四国,畿内などにまたがる支配圏を築き,嫡流がいわゆる三管領家として室町幕府に雄飛したのは,淡路水軍の協力に負うところが少なくない。

 応仁の乱に,淡路守護細川成春は東軍の主将細川勝元をたすけて活動した。戦国時代に入り細川一族が分争すると,淡路守護細川尚春は細川澄元方として細川高国方と戦ったが,高国方に下ったため1519年(永正16)三好之長に攻め滅ぼされた。やがて三好長慶は弟冬康に安宅氏の家名を継がせ,由良城に置いて淡路を治めさせた。54年(天文23)長慶は洲本で3人の弟三好義賢,十河一存(そごうかずなが)および安宅冬康と会合して戦略を練った。しかし長慶は64年(永禄7)松永久秀の讒言(ざんげん)をいれて冬康を河内飯盛城中に殺し,ついで長慶も病死し,三好氏の淡路支配は解消した。
執筆者:

1581年(天正9)織田信長の部将仙石秀久が入部,85年豊臣秀吉の四国平定後脇坂安治が3万3000石の洲本城主として,その伊予大洲移封後には,1610年(慶長15)池田輝政の三男忠雄が6万3000石領主として居城を紀淡海峡にのぞむ由良にかまえた。15年(元和1)池田忠雄が本家岡山藩主として転出,淡路は収公後,あらためて6万3000石余が徳島藩主蜂須賀至鎮(よししげ)に加封された。その後18年岩屋周辺1万7000石が加増され,以後淡路全島は蜂須賀氏の領するところとなった。31年(寛永8)藩主忠英は藩政機構の整備をはかり,筆頭家老の稲田示稙(しげたね)を洲本城代として淡路に配置。以降淡路の仕置には廃藩置県にいたるまで稲田氏が当たった。1782年(天明2)役人と富商が結託した不正,専売制の悪用が三原郡北東部を中心とした12ヵ村による一揆(縄騒動)を引き起こした。庶民の間では中世末に摂津西宮の戎(えびす)神社とのつながりに始まるとされる人形浄瑠璃が盛行し,藩主歴代の庇護,奨励もあって享保・元文期には上村源之丞座ほか40座を数え,寛政期には930余人の旅興行に当たる専業芸能者がいたといわれる(淡路人形)。

 1854年(安政1)幕命によって徳島藩では淡路の岩屋と由良に砲台を築き海防に当たるが,63年(文久3)には幕艦誤射事件を起こしている。幕末政争期には洲本城代家老稲田邦稙が討幕派として活躍し,家臣に勤皇派の士が輩出した。政情の緊迫する67年(慶応3)三原郡湊浦から“ええじゃないか”の乱舞がはじまり京坂にひろまった。69年(明治2)藩主茂韶(もちあき)は版籍を奉還し知藩事となるが,このとき家老稲田氏家臣が淡路の分離独立を求め,翌年徳島藩士が襲撃する庚午事変が起こり,徳島県からの淡路分離の遠因をつくった。71年の廃藩置県では津名郡北部43ヵ村が兵庫県に,残りは徳島県に配されたが,76年全島が兵庫県に編入された。
執筆者:

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「淡路国」の意味・わかりやすい解説

淡路国
あわじのくに

兵庫県淡路島の旧国名。阿波(あわ)への路の意味をもつと伝えられ、南海道の一国で、津名(つな)、三原(みはら)の両郡に分かれていた。国衙(こくが)は榎列(えなみ)郷(現、南あわじ市)に置かれ、榎列、郡家(ぐんけ)、外賀(とが)には屯倉(みやけ)が置かれていた。『延喜式(えんぎしき)』には国産品として魚、貢蘇(こうそ)、横刀、弓、征箭(そや)、胡簶(やなぐい)、零陵香(れいりょうこう)(薬草)、淡路墨を産し、調物として宍(しし)(鳥獣肉)1000斤と雑魚(ざこ)1300斤のほか塩も納めたとされている。『和名抄(わみょうしょう)』や『拾芥抄(しゅうがいしょう)』によると耕地面積が約2800町歩ほどあったと記録されており、下国(げこく)だが南海道の要衝として重要な位置を占めていた。『淡路国大田文(おおたぶみ)』(1223)には、鳥飼荘(とりかいのしょう)(石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)領)や賀集(かしお)荘(高野山(こうやさん)宝幢院(ほうどういん)領)をはじめ、23の荘園(しょうえん)と14の国衙領が存在している。1185年(文治1)守護に補任(ぶにん)された佐々木経高(つねたか)は阿波、土佐をも兼務したが、承久(じょうきゅう)の乱(1221)のとき上皇方に味方して滅亡し、かわって長沼宗政(むねまさ)が入部している。南北朝内乱期の1340年(興国1・暦応3)には、阿波の守護細川頼春(よりはる)の弟師代が淡路を制圧し、養宜(やぎ)郷に守護所を設け、1507年(永正4)に子孫の尚春(なおはる)が三好長輝(ながてる)に倒されるまで、細川氏による淡路支配が続いた。阿波から出て室町幕府の実権を握った三好長慶(ながよし)は、弟の安宅冬康(あたかふゆやす)を由良(ゆら)城に置いて淡路を一円支配させたが、その子清康は1581年(天正9)織田信長に降(くだ)り、淡路には仙石秀久(せんごくひでひさ)が入部、また1585年(天正13)脇坂安治(わきざかやすはる)が洲本(すもと)城に入り3万3000石を領した。さらに1610年(慶長15)池田忠雄が6万3000石の領主として入部したが、1615年(元和1)に忠雄は備前(びぜん)藩主に転じたため、淡路は幕府の直轄地となった。同年に徳島藩主蜂須賀至鎮(はちすかよししげ)は、岩屋の天領を除く淡路国6万3000石を拝領し、1617年には岩屋をも加増されたことによって、版籍奉還まで徳島藩領となっていた。蜂須賀氏は筆頭家老を洲本城代として常駐させるとともに、藩士を派遣して、淡路一円の民政にあたらせた。1871年(明治4)7月の廃藩置県のとき、津名郡43か村は兵庫県の管轄となり、ほかは徳島県に含まれた。しかし同年11月に徳島県が名東(みょうどう)県と改称されたとき、淡路全島は名東県管内に編入。さらに、1876年に名東県が高知県に合併されたとき、淡路全島は兵庫県管内に編入され、今日に至っている。

[三好昭一郎]

『『洲本市史』(1974・洲本市)』『『三原郡史』(1979・三原郡町村会)』『渡辺月石編・新見貫次校注『堅岩草』(1971・名著出版)』


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「淡路国」の意味・わかりやすい解説

淡路国
あわじのくに

現在の兵庫県の淡路島南海道の一国。下国。もと淡道国造が支配。神代の国生みの神話に,最初に生まれた島とする。国府,国分寺ともに南あわじ市にあった。『延喜式』には津名 (つな) ,三原の2郡があり,『和名抄』には郷 18,田 2650町余が記載されている。しかし「大田文」は荘 24,保7としている。天平宝字8 (764) 年,淳仁天皇は皇位を廃され,ここに流されたという。鎌倉時代,佐々木経高,和田義盛,長沼宗政が守護となり,以後長沼氏の所領となった。室町時代に入って細川氏の支配するところとなったが,一時,三好氏が領したこともある。のち織田信長は仙石秀久を,豊臣秀吉は脇坂安治をここに封じ,江戸時代には慶長 15 (1610) 年池田輝政の領となり,6万 3000石。のち元和1 (15) 年徳島藩主蜂須賀氏の支配となり,洲本に城代稲田氏を置き,幕末にいたった。明治4 (1871) 年7月徳島藩を廃して南部を徳島県 (11月名東県と改称) ,北部を兵庫県としたが,同 1871年 11月全島が名東県となり,1876年淡路全域が兵庫県に併合された。

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藩名・旧国名がわかる事典 「淡路国」の解説

あわじのくに【淡路国】

現在の兵庫県淡路島を占めた旧国名。国名の由来は阿波(あわ)国徳島県)への路に発するといい、律令(りつりょう)制下で南海道に属す。「延喜式」(三代格式)での格は下国(げこく)で、京からは近国(きんごく)とされた。国府と国分寺はともに現在の南あわじ市におかれていた。南北朝時代以降細川氏が支配したが三好(みよし)氏に倒され、近世は徳島藩主の蜂須賀(はちすか)氏の支配下に入った。1871年(明治4)の廃藩置県で一部は徳島県となったが、1876年(明治9)に全島が兵庫県となった。◇淡州(たんしゅう)ともいう。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「淡路国」の解説

淡路国
あわじのくに

淡道国・粟路国とも。南海道の国。現在の兵庫県淡路島。「延喜式」の等級は下国。「和名抄」では津名(つな)・三原の2郡からなる。国府・国分寺・国分尼寺は三原郡(現,南あわじ市)におかれた。一宮は伊弉諾(いざなぎ)神社(現,淡路市)。「和名抄」所載田数は2650町余。古代には御食国(みけつくに)とよばれ,海人部(あまべ)による海産物の貢納が行われ,天皇の食膳の料を供える国とされた。738年(天平10)の正税帳や「延喜式」からも贄(にえ)の貢進が知られる。皇族の配流地とされ,淳仁(じゅんにん)天皇や早良(さわら)親王などが流された。鎌倉時代の守護は長沼氏,室町中期は細川氏で,戦国期には阿波国三好氏の勢力下にあった。1615年(元和元)徳島藩領となり,洲本(すもと)に城代として稲田氏をおいた。1871年(明治4)廃藩置県により兵庫県と徳島県に分割,76年全島が兵庫県に編入された。

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百科事典マイペディア 「淡路国」の意味・わかりやすい解説

淡路国【あわじのくに】

旧国名。淡州とも。南海道の一国。現在は兵庫県に所属。阿波への路の意。《延喜式》に下国,2郡。淳仁(じゅんにん)天皇廃位後この島に流されて没す。鎌倉時代に佐々木氏,室町時代に細川氏,三好氏らが領有。江戸時代は徳島藩主蜂須賀氏家臣の稲田氏が洲本(すもと)城代として支配。→淡路島
→関連項目近畿地方兵庫[県]

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