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淡路国 あわじのくに

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

淡路国
あわじのくに

現在の兵庫県淡路島南海道の一国。下国。もと淡道国造が支配。神代の国生みの神話に,最初に生まれた島とする。国府,国分寺ともに南あわじ市にあった。『延喜式』には津名 (つな) ,三原の2郡があり,『和名抄』には郷 18,田 2650町余が記載されている。しかし「大田文」は荘 24,保7としている。天平宝字8 (764) 年,淳仁天皇は皇位を廃され,ここに流されたという。鎌倉時代,佐々木経高和田義盛長沼宗政が守護となり,以後長沼氏の所領となった。室町時代に入って細川氏の支配するところとなったが,一時,三好氏が領したこともある。のち織田信長は仙石秀久を,豊臣秀吉は脇坂安治をここに封じ,江戸時代には慶長 15 (1610) 年池田輝政の領となり,6万 3000石。のち元和1 (15) 年徳島藩蜂須賀氏の支配となり,洲本に城代稲田氏を置き,幕末にいたった。明治4 (1871) 年7月徳島藩を廃して南部を徳島県 (11月名東県と改称) ,北部を兵庫県としたが,同 1871年 11月全島が名東県となり,1876年淡路全域が兵庫県に併合された。

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デジタル大辞泉の解説

あわじ‐の‐くに〔あはぢ‐〕【淡路国】

淡路

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百科事典マイペディアの解説

淡路国【あわじのくに】

旧国名。淡州とも。南海道の一国。現在は兵庫県に所属。阿波への路の意。《延喜式》に下国,2郡。淳仁(じゅんにん)天皇廃位後この島に流されて没す。鎌倉時代に佐々木氏,室町時代に細川氏,三好氏らが領有。
→関連項目近畿地方兵庫[県]

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藩名・旧国名がわかる事典の解説

あわじのくに【淡路国】

現在の兵庫県淡路島を占めた旧国名。国名の由来は阿波(あわ)国徳島県)への路に発するといい、律令(りつりょう)制下で南海道に属す。「延喜式」(三代格式)での格は下国(げこく)で、京からは近国(きんごく)とされた。国府と国分寺はともに現在の南あわじ市におかれていた。南北朝時代以降細川氏が支配したが三好(みよし)氏に倒され、近世は徳島藩主の蜂須賀(はちすか)氏の支配下に入った。1871年(明治4)の廃藩置県で一部は徳島県となったが、1876年(明治9)に全島が兵庫県となった。◇淡州(たんしゅう)ともいう。

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世界大百科事典 第2版の解説

あわじのくに【淡路国】

旧国名。淡州。現在の兵庫県南部の淡路島。
【古代】
 南海道に属する下国(《延喜式》)。《古事記》は淡道,《日本書紀》は淡路と書く。阿波(粟)国へ行く道の意味であろう。瀬戸内海交通上の要地でもある。記紀の国生み神話では,ほとんどの所伝が第一に淡路島が生まれたとする。また反正天皇が淡路で生まれたこと,淡路出身の和知都美(わちつみ)命の女が孝霊天皇の妃となったこと,仲哀天皇のとき淡路屯倉(みやけ)を定めたこと,履中,允恭両天皇が淡路で狩りをしたことなどが見える。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

淡路国
あわじのくに

兵庫県淡路島の旧国名。阿波(あわ)への路の意味をもつと伝えられ、南海道の一国で、津名(つな)、三原(みはら)の両郡に分かれていた。国衙(こくが)は榎列(えなみ)郷(現、南あわじ市)に置かれ、榎列、郡家(ぐんけ)、外賀(とが)には屯倉(みやけ)が置かれていた。『延喜式(えんぎしき)』には国産品として魚、貢蘇(こうそ)、横刀、弓、征箭(そや)、胡(やなぐい)、零陵香(れいりょうこう)(薬草)、淡路墨を産し、調物として宍(しし)(鳥獣肉)1000斤と雑魚(ざこ)1300斤のほか塩も納めたとされている。『和名抄(わみょうしょう)』や『拾芥抄(しゅうがいしょう)』によると耕地面積が約2800町歩ほどあったと記録されており、下国(げこく)だが南海道の要衝として重要な位置を占めていた。『淡路国大田文(おおたぶみ)』(1223)には、鳥飼荘(とりかいのしょう)(石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)領)や賀集(かしお)荘(高野山(こうやさん)宝幢院(ほうどういん)領)をはじめ、23の荘園(しょうえん)と14の国衙領が存在している。1185年(文治1)守護に補任(ぶにん)された佐々木経高(つねたか)は阿波、土佐をも兼務したが、承久(じょうきゅう)の乱(1221)のとき上皇方に味方して滅亡し、かわって長沼宗政(むねまさ)が入部している。南北朝内乱期の1340年(興国1・暦応3)には、阿波の守護細川頼春(よりはる)の弟師代が淡路を制圧し、養宜(やぎ)郷に守護所を設け、1507年(永正4)に子孫の尚春(なおはる)が三好長輝(ながてる)に倒されるまで、細川氏による淡路支配が続いた。阿波から出て室町幕府の実権を握った三好長慶(ながよし)は、弟の安宅冬康(あたかふゆやす)を由良(ゆら)城に置いて淡路を一円支配させたが、その子清康は1581年(天正9)織田信長に降(くだ)り、淡路には仙石秀久(せんごくひでひさ)が入部、また1585年(天正13)脇坂安治(わきざかやすはる)が洲本(すもと)城に入り3万3000石を領した。さらに1610年(慶長15)池田忠雄が6万3000石の領主として入部したが、1615年(元和1)に忠雄は備前(びぜん)藩主に転じたため、淡路は幕府の直轄地となった。同年に徳島藩主蜂須賀至鎮(はちすかよししげ)は、岩屋の天領を除く淡路国6万3000石を拝領し、1617年には岩屋をも加増されたことによって、版籍奉還まで徳島藩領となっていた。蜂須賀氏は筆頭家老を洲本城代として常駐させるとともに、藩士を派遣して、淡路一円の民政にあたらせた。1871年(明治4)7月の廃藩置県のとき、津名郡43か村は兵庫県の管轄となり、ほかは徳島県に含まれた。しかし同年11月に徳島県が名東(みょうどう)県と改称されたとき、淡路全島は名東県管内に編入。さらに、1876年に名東県が高知県に合併されたとき、淡路全島は兵庫県管内に編入され、今日に至っている。[三好昭一郎]
『『洲本市史』(1974・洲本市) ▽『三原郡史』(1979・三原郡町村会) ▽渡辺月石編・新見貫次校注『堅岩草』(1971・名著出版)』

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