日本大百科全書(ニッポニカ) 「阿賀野川水銀中毒事件」の意味・わかりやすい解説
阿賀野川水銀中毒事件
あがのがわすいぎんちゅうどくじけん
第二水俣(みなまた)病、新潟水俣病事件ともいわれる。1965年(昭和40)6月新潟市下山など阿賀野川下流域に有機水銀中毒症患者が発生していることが、新潟大学医学部教授らによって公表された。1950年代後半に多発した熊本水俣病の経験を踏まえ、住民の対応はすばやく、1965年8月、地域22団体の参加で民主団体水俣病対策会議が結成され、1967年4月地元弁護士で組織された新潟水俣病弁護団とともにその後の裁判闘争を支えた。事件発表以来の調査で、昭和電工鹿瀬(かのせ)工場のアセトアルデヒド製造工程から生ずる工場廃液であることが明らかにされ、1967年6月患者家族は昭電相手に慰謝料請求訴訟を提起した。原告側はその後増加し総勢77名になる。1971年9月新潟地裁判決は、企業の公害責任を明確にするなど原告側主張を基本的に認めた。これより先、被告が控訴権を放棄したため、四大公害訴訟中最初の確定判決となった。しかし、その後1973年の全被害者の生涯補償を取り決めた協定にもかかわらず、患者認定数は急減し、1978年以降ほとんど認定されることがなかった。そのため1982年6月約1000人といわれる未認定患者を代表する形で94名が国と昭和電工の共同賠償を求める第二次訴訟を起こし、1992年(平成4)3月に新潟地裁判決は原告の大半を水俣病と認定したが、国の責任は否定した。その後控訴審が続いていたが、1995年11月、原告、弁護士側と被告側の直接交渉が行われ、翌12月に被告の昭和電工が救済対象者に対する一律260万円の一時金の支払い、被害者団体に4億4000万円の加算金の支払い、新潟県へ地域振興策として2億5000万円の寄付金の支払いを行うなどの協定が締結された。
[荒川章二]
『「公害裁判」(『法律時報』1971年7月臨時増刊号・日本評論社・所収)』▽『「新潟水俣病判決」(『法律時報』1971年11月号・日本評論社)』▽『五十嵐文夫著『新潟水俣病』(1971・合同出版)』▽『滝沢行雄著『しのびよる公害――新潟水俣病』(1970・野島出版)』▽『田中二郎他編『戦後政治裁判史録 第4巻』(1980・第一法規出版)』▽『坂東克彦著『新潟水俣病の三十年――ある弁護士の回想』(2000・日本放送出版協会)』▽『飯島伸子・船橋晴俊編著『新潟水俣病問題――加害と被害の社会学』(1999・東信堂・現代社会学叢書)』