公害の被害者が加害者である事業者等を相手に,損害賠償や被害発生の原因となる事業活動の全部または一部の差止めを求めて提起した訴訟についての民事裁判。これまでの事例では,しばしば被害者が多数にのぼり,訴訟が長期化し,一方では被害者に対する支援の運動を伴い社会問題化する傾向があった。このほか,公害を発生させた者の刑事責任を問う刑事裁判がある。
日本では,公害被害が深刻であり,死者を含む重大な健康被害を引き起こした事件が少なくない。そしてそれらの被害の損害賠償が問題とされた裁判事件のうちで,富山イタイイタイ病事件,新潟水俣病事件(阿賀野川有機水銀中毒事件),熊本水俣病事件,四日市喘息事件は四大公害裁判と呼ばれることがある。しかし,農業被害の損害賠償が請求された事件をたどれば,古く1916年に大審院で判決があった大阪アルカリ事件などにさかのぼることができる。また,長期間の紛争のすえ,被告事業者が損害発生を認識し容認していたとして,故意を認めて損害賠償を命じた安中公害事件のような特異な公害裁判もある。また,大阪空港公害事件や名古屋新幹線事件のように,将来の公害の発生を防止することを求める裁判事例も1970年代に入るとみられるようになり,このほか,伊達火力事件や豊前火力事件など,各地で火力発電所等の大規模な公害発生源の立地の差止めを求める裁判事件もみられるようになった。
損害賠償を求める公害訴訟が多発し,判決が多数出されたのは,1960年代後半から70年代前半にかけてである。この時期の公害訴訟は,前述のように多数の原告による集団訴訟であり,さらに被害者が専門知識をもたない一般住民であった。しかも相手方が優秀な技術者を多数擁している大規模な事業者であることが多く,損害の発生も突発事故のような一過性のものでなく継続的なものである等の特色をもっていた。そこで,これまでの損害賠償訴訟の法理論では十分に処理できない問題が多数にのぼり,公害裁判を進める過程で,従来の法理論や技術と異なった考え方が広く提唱され,これが裁判所によっても採用される結果を導き出した。
因果関係の証明や過失の立証などにもその例がみられるが,このほか,賠償額の包括的な認定(包括請求)の主張は,多数の原告がいる裁判の長期化を避ける目的で出されたものであった。また,個々の原告ごとに損害額に差別を設けることなく,同一額の賠償を認めるべきものとする〈一律請求〉も主張された。この主張は,賠償額に差がつくことによって原告相互の間に不満・対立をもたらすことを恐れた,主として運動としての配慮から出たものであり,裁判所の採用するところとならなかった。
また,健康や生命は価格をつけることができないのであって,訴訟で請求された賠償額は全損害の一部にすぎない,とする〈一部請求〉の主張も行われた。これは,現実には被害者の被害に差があるため,一律請求とすることによる矛盾を解消しようとするものであった。この主張はさらに他方では,公害裁判で勝訴したときに,支援運動の力なども借りた被告との直接交渉により,さらに上乗せの補償を請求する根拠にしようとする目的もあった。ただし,この一部請求の主張も,実際には裁判所によって採用されたとは評価しがたいところである。
大阪空港訴訟をはじめとする公害差止めの裁判では,被害を受けた者のみが裁判の原告となる資格をもつ。しかし,この種の裁判では,原告が多いほど社会的影響力も大きなものとなる。そこで,原告の資格を広くするとともに,原告の主張の正当性をアピールする目的もあって,〈環境権〉が提唱された。この主張も必ずしも裁判所に受入れられたとはいいがたい。環境といってもその概念は必ずしも明瞭でなく,これを個人の私的な権利として差止請求の根拠とするためには,権利の中身や範囲が明らかでない,というのがその理由である。ただし,この権利の提唱は,被害者の個人の権利保護のみを目的とする現在の裁判制度の枠をこえ,集団としての被害者の保護のあり方を検討する必要を示唆したものとしてなお意義が失われるものではない。
なお,公害被害を発生させた事業者等の責任者が,刑事裁判で有罪とされることがある。熊本水俣病事件では,当時の会社の代表取締役と工場長が,刑法の業務上過失致死罪にあたるとして起訴され,一審・二審・三審(1979年の熊本地裁,82年の福岡高裁,88年の最高裁)ともに有罪とされた。会社の代表者は,直接に操業の指揮をしないことが多いので,個人の行為を処罰するのが建前の刑事裁判で有罪となることはまれである。しかし,この事件では工場設備の変更の決定をした責任を負わされた。このほか,〈人の健康に係る公害犯罪の処罰に関する法律〉によって,工場責任者や企業が有罪とされた例(四日市エアロジル事件(1979年津地裁の判決)や大東電線工場事件(1979年大阪地裁の判決))などがある。このような刑事裁判は,公害発生者の法的責任を明らかにするとともに,関係者に公害防止の必要性を認識させる効果をもつものである。
このほか,キノホルム(〈スモン〉の項目参照),サリドマイド,血液製剤などによる薬害や森永ヒ素ミルク中毒事件,カネミ油症事件などの食品中毒被害の被害者は,公害被害者のおかれた立場に似た一面があり,これらの事件をめぐる裁判も,公害裁判と類似の面をもっていることに留意する必要がある。
→疫学的証明 →公害 →公害犯罪 →差止請求権 →製造物責任 →損害賠償
執筆者:浅野 直人
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…しかし,条件関係の存否は,つねに確実なものとして判断しうるわけではない。とくに公害事件(公害裁判)における因果関係がそうである。工場が亜硫酸ガスを排出し,風下の人間が喘息(ぜんそく)に罹患したという事実が確定されたとしても,被害者が吸引して喘息の原因となった物質は,車の排気ガスあるいはタバコの煙かもしれない。…
…
[〈公害健康被害補償法〉の制定]
1959年に石油コンビナートが操業を始めた四日市で,その直後から健康被害の苦情が多発しはじめ,64年度の厚生省によるばい(煤)煙影響調査の結果,四日市の喘息(ぜんそく)様の呼吸器疾患の多発は大気汚染によるものであるという発表がなされ,これを受けて四日市市が公害病としての独自の医療扶助制度を開始したことが一つの契機となって,公害病という用語が社会的に広がり,定着してきたものである。ひきつづき1960年代の後半には,四大公害裁判といわれる四日市公害,熊本および新潟水俣病,富山イタイイタイ病の裁判が始められ,71年新潟水俣病,72年四日市およびイタイイタイ病,73年熊本水俣病と,すべて健康被害を受けた原告側の勝訴の結果となり,ここに公害病の概念の原型が社会的通念として広がってきた。1969年には公害に係る健康被害の救済に関する特別措置法が成立して,医療費,医療手当,介護手当の支給を内容とする制度が動き出し,74年には〈公害健康被害補償法〉が施行されて,医療費のみならず,障害の程度,年齢に応じての障害補償費,遺族補償,療養手当などの支給の制度ができた。…
※「公害裁判」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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