隈町(読み)くままち

日本歴史地名大系 「隈町」の解説

隈町
くままち

[現在地名]日田市隈一―二丁目・川原町

竹田たけだ村の西部、庄手しようで川右岸にある。豆田まめだ町と併せ日田両町と称されるが、豆田町と比べると玖珠くす川・大山おおやま川流域を後背地とする在郷町的性格がみられる。文禄三年(一五九四)代官宮木(宮城)長次郎日隈ひのくま城築城に伴い田島たしまの民家を移して形成された町で、「豊後国志」には田島大原おおはら八幡宮の街市を移し隈街と名付けたとある。慶長元年(一五九六)から毛利高政が隈城に入り、同六年同氏は佐伯さいきへ転封となるが、元和二年(一六一六)まで同氏の預地であったため、少なくとも日田郡などの政治的中心でもあったが、同年永山ながやま城に入った石川忠総の支配となるに伴い豆田町がそれを継承した。「豊後国志」などに「竹田之支」とあるように、正保・元禄・天保の各郷帳には当町の記載はなく、枝郷扱いの場合が多かったものの、実際には豆田町とともに独立した町であったといえる。

町名は寛文四年(一六六四)日田騒動の際の日田代官熊本藩往復書簡(松井家文書)に当両町の者などとみえるのが早い例で、延宝八年(一六八〇)代官所の「隈豆田両町」の地子免許の吟味では「豊後国志」と同趣旨の説明をし、その際に地子御免とされたと伝えるが、今となっては証拠はないとしている(永山布政史料)。貞享四年(一六八七)宗門改でも町名がみえており、町年寄が請書を出している(古後家文書)。元禄元年(一六八八)九月着任の三田代官により地子が課せられることになったとされるが(豊後全史)、「永山布政史料」には同二年から豆田町・隈町の地子銀が始まると記され、この銀納請持は隈町分は竹田村とされたという。ただし同年両町の年寄中は代官所に対して年貢地になったことは当然であるとし、定免かつ銀納とすること、また竹田村と別村とすることなどを求めている(同書)。地子高八二石余、免六ツ二分で、これは正徳四年(一七一四)の日田郡村々毛付高写(豊西説話)などでも同様であるが、延享二年(一七四五)には町屋敷に上・中・下の三等級をつけて地子の増徴が命じられ六ツ五分となり(永山布政史料)、天明八年(一七八八)の町明細帳(日隈家文書)では竹田村のうち隈町地子高八二石余・反別五町九反余(石盛一四)として六ツ九分と変わっており、納方は大豆五七石余となっている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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