日本歴史地名大系 「隈町」の解説
隈町
くままち
町名は寛文四年(一六六四)の日田騒動の際の日田代官と熊本藩の往復書簡(松井家文書)に当両町の者などとみえるのが早い例で、延宝八年(一六八〇)代官所の「隈豆田両町」の地子免許の吟味では「豊後国志」と同趣旨の説明をし、その際に地子御免とされたと伝えるが、今となっては証拠はないとしている(永山布政史料)。貞享四年(一六八七)の宗門改でも町名がみえており、町年寄が請書を出している(古後家文書)。元禄元年(一六八八)九月着任の三田代官により地子が課せられることになったとされるが(豊後全史)、「永山布政史料」には同二年から豆田町・隈町の地子銀が始まると記され、この銀納請持は隈町分は竹田村とされたという。ただし同年両町の年寄中は代官所に対して年貢地になったことは当然であるとし、定免かつ銀納とすること、また竹田村と別村とすることなどを求めている(同書)。地子高八二石余、免六ツ二分で、これは正徳四年(一七一四)の日田郡村々毛付高写(豊西説話)などでも同様であるが、延享二年(一七四五)には町屋敷に上・中・下の三等級をつけて地子の増徴が命じられ六ツ五分となり(永山布政史料)、天明八年(一七八八)の町明細帳(日隈家文書)では竹田村のうち隈町地子高八二石余・反別五町九反余(石盛一四)として六ツ九分と変わっており、納方は大豆五七石余となっている。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報