雀岐庄(読み)ささきのしよう

日本歴史地名大系 「雀岐庄」の解説

雀岐庄
ささきのしよう

出石川とその支流佐々木ささき川・河本こうもと川流域にあった法勝ほつしよう寺領庄園。「但馬考」は河本・西谷にしだに天谷あまだに小谷おだに・佐々木・相田あいだ正法寺しようぼうじ平田ひらた栗尾くりおの九村を「佐々木庄と云」としている。法勝寺は京都岡崎おかざき(現京都市左京区)にあった白河天皇の御願寺であるが、当庄がその寺領で皇室領の一となった経緯は未詳。初見は治承年間(一一七七―八一)早部(日下部か)貞助を当庄公文職に補任した源朝臣某下文案(広橋家文書、以下断りのないかぎり同文書)で、次いで建久八年(一一九七)七月日付で雀岐新大夫助景を「但馬国当役御家人」とした交名注文案があるが、ともに南北朝時代の相論の具書なので、疑問が残るかもしれない。次いで文永一〇年(一二七三)一一月一四日、領家坊門三位入道(基輔)預所通貞と地頭太田左衛門三郎政継との間で下地中分が行われ、同年一一月一六日付の関東下知状によって承認された。この史料(雀岐庄領家方・地頭方下地中分状案、関東下知状案)も相論具書の一部として伝わるが、下地中分は弘安八年(一二八五)但馬国太田文に記されており、確かに行われた。下地中分状は年貢の年々未進の有無ならびに地頭得分の年々抑留や否やについては、和与中分のうえは相互に沙汰に及ばないなど五項からなり、地頭は年々年貢未進を重ね、これに対抗して領家方預所が地頭得分を抑留し、結局下地中分によって和与したことが判明する。

太田文には「雀岐庄 七十二町九反四拾六分」とみえ、「法勝寺領」「領家尾張三位家跡」「内 但中分地」の注記がある。下地中分の結果、東方西方に分れる。東方は三七町五反三〇分で「領家尾張三位入道子息三人」と注記があり、庄田の内訳は河成四反小三〇歩、寺田二町二反、神田三町六反三三〇歩、定田三一町一反大四〇歩である。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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