青江村(読み)あおえむら

日本歴史地名大系 「青江村」の解説

青江村
あおえむら

[現在地名]岡山市青江・豊成とよなり二―三丁目・十日市西町とおかいちにしまち

東は新福しんぷく村、西は新保しんぼう村・泉田いずみだ村・福田ふくだ村、北は富田とみた村・田住たじゆう村。岡山藩が明暦三年(一六五七)以前に設定した二六加子浦の一(藩法集)。寛永備前国絵図に村名がみえ、高九二六石余。「備陽記」によると田畑五六町余、家数一二七・人数六九八。堤際に元禄元年(一六八八)開墾の枝村の青江新田があり、高一五七石余は朱印高外で、田畑一一町七反余、家数三・人数一三、猟船四艘がある。文化年間の「岡山藩領手鑑」では直高一千六七八石余、蔵入。田高九六七石余・畑高六七石余、家数一七八で、すべて城下二日市ふつかいち日蓮宗妙勝みようしよう寺檀家。人数八〇六、牛五三、樋・分木一五、橋七三、育麦蔵一、肥取船一六。


青江村
あおえむら

[現在地名]秋穂町大字ひがしの一部

大海おおみ村の西南に位置し、周防灘に臨む小村

大海村の一部で、藩士の給領地であったが、明和三年(一七六六)開作によって撫育地として上地、青江村として独立させた。小郡宰判所属。

この開作は青江開作とよばれ、藩士粟屋就貞拝領の勤功開作で、「注進案」は田畠七町余で石高三六石余、塩浜が二六町余で一千三〇二石余と記載している。この撫育地からの上納は、藩の別途会計撫育金として積まれた。同書によれば家数二五、人口九六人、廻船四艘、庄屋一人と年寄一人がおり、村の産業は「当村塩浜多く男女共三月より八月までの間、塩浜仕、九月より二月迄之間男は塩菰をあみ、女は紡績を事」とするが、売り払って換金するほどではなかったと記す。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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