(浅井和春)
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平安中期,11世紀前半に活躍した仏師。日本彫刻史上屈指の名匠といわれる。仏師僧康尚(こうじよう)の子と考えられ,1020年(寛仁4)康尚とともに藤原道長発願の無量寿院(のちの法成寺阿弥陀堂)の9体の丈六阿弥陀像をつくったのをはじめ,宮廷や藤原一門などの造仏に多くたずさわった。22年(治安2)法成寺造仏の功によって,仏師としてはじめて僧綱位の法橋に叙され,48年(永承3)には興福寺造仏の賞として法眼に進んでいる。その間,後一条天皇の中宮威子御産祈禱のための27軀の等身仏像(1026),後一条天皇仏事の御仏三体(1036),後朱雀天皇念持の一尺銀薬師像(木原型の製作か。1040)など,非常に多くの造仏にあたっている。53年(天喜1)には京都宇治の平等院鳳凰堂の本尊阿弥陀如来座像をつくったが,これは定朝唯一の確実な現存作品である。当時定朝の最高傑作と評されたのは54年ごろにつくられた京都西院邦恒堂の阿弥陀如来像で,12世紀に仏師院覚と院朝が造仏の規範として,その寸法をくわしく測定したことが《長秋記》に見える。鳳凰堂像により知られる彼の作風は,浄土教を信奉する当時の精神を的確に表現したもので,天平の古典彫刻にのっとって10世紀ごろからしだいにあらわれてきた単純化とやさしさをいっそう推し進め,顔は丸くいわゆる円満具足の相をもち,膝は広く低く安定感を示し,衣文線も流麗で浅く平行に流れるという,日本的に純化された和様と称される様式を完成している。彼以後この様式は定朝様と呼ばれて長く日本の彫刻の規範とされている。そのほか,従来の一木造と違って複数の木を寄せて像身を構成する,いわゆる寄木造の完成者ともいわれている。また専門仏師として独立したのは康尚が初めてのようであるが,仏師の分業的活動を整備し仏所の組織を確立したのは定朝と考えられ,大仏師,小仏師の制が定められたのも彼によると思われる。彼以後,仏師の世襲の風潮と流派とが定まってゆき,平安後期から鎌倉時代にかけて活躍した仏所はすべて定朝の子覚助,弟子長勢から出たとして,定朝を祖と仰いでいる。
執筆者:佐藤 昭夫
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平安中期の仏師。日本彫刻史上屈指の名工とうたわれている。仏師僧康尚(こうしょう)の子で、1020年(寛仁4)父とともに藤原道長発願の無量寿院(後の法成寺(ほうじょうじ)阿弥陀堂(あみだどう))の9体の丈六阿弥陀像をつくったのをはじめ、皇室や藤原一門などの造仏に多く携わり、22年(治安2)法成寺の16体の造仏の功により、仏師として初めて僧綱位(そうごうい)の法橋(ほっきょう)に叙せられ、48年(永承3)には興福寺造仏の賞として法眼(ほうげん)に進んでいる。その間、中宮威子(いし)御産祈祷(きとう)のための27躯(く)の等身仏像(1026)、後一条(ごいちじょう)天皇仏事の御仏3体(1036)、後朱雀(ごすざく)天皇念持の一尺銀薬師像(1040)など、非常に多くの造仏にあたり、53年(天喜1)には宇治平等院鳳凰堂(ほうおうどう)本尊阿弥陀如来(にょらい)坐像を藤原頼通(よりみち)のためにつくったが、これが定朝唯一の確実な現存作品である。だが当時定朝の最高傑作と評されたのは54年ごろの西院邦恒(くにつね)堂の阿弥陀如来像といわれ、のちに仏師院覚と院朝が造仏の規範であるとして、その寸法を詳しく測定したことが『長秋記』にみえる。
鳳凰堂の阿弥陀如来像によって知られる彼の作風は、浄土教を信奉する当時の精神を的確に表現したもので、天平(てんぴょう)の古典彫刻にのっとって、10世紀ごろからしだいに表れてきた単純化と優しさをいっそう推し進め、顔は丸く、いわゆる円満具足の相をもち、膝(ひざ)は広く低く安定し、流麗な衣文(えもん)線も浅く平行に走るという、日本的に純化された、いわゆる和様と称される様式を完成している。以後この様式は定朝様とよばれて長く日本の彫刻の規範とされた。そのほか、従来の一木造(いちぼくづくり)と違って、いくつかの木を寄せてつくる寄木造(よせぎづくり)の完成者ともいわれている。また専門仏師として独立したのは彼の父康尚が最初のようだが、仏師の分業的活動を整備し、仏所の組織を確立したのは定朝であり、たとえば大仏師、小仏師の制が定められたのも彼によると考えられている。彼以後、仏師の世襲の風潮と流派とが定まってゆき、平安後期から鎌倉時代にかけて活躍した仏所は、すべて定朝の子覚助、弟子長勢から出たとして、定朝を祖と仰いでいる。
[佐藤昭夫]
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平安時代の仏師。1020年(寛仁4)無量寿院の造仏を皮切りに,師もしくは父である康尚(こうじょう)の仕事をうけつぐかたちで藤原道長に重用され,その造営になる法成寺(ほうじょうじ)の金堂・薬師堂などの大規模な造仏を手がけた。次の頼通時代にも天皇を含めた道長一族の関係する造像を独占的に行い,48年(永承3)供養の興福寺復興造像にもたずさわる。この間,当時の仏師としては異例の僧綱(そうごう)位(法橋(ほっきょう)ついで法眼(ほうげん))を獲得して社会的地位を高め,また数十人の小仏師を擁する工房を統率していたと思われる。晩年の作の平等院阿弥陀如来像にうかがえるように,古典の学習を基盤として王朝貴族の嗜好にあった典雅な仏像の姿を造りだし,以後定朝様として強い拘束力をもった。
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…膝の部分は後補であるが,上体のバランスがよく,気品のある忿怒相は,まさにこの時代の中央での作風を示すもので,康尚の作に比定されている。彼は20年(寛仁4)道長発願の法成寺(ほうじようじ)無量寿院丈六九体阿弥陀像造顕に子息定朝とともにたずさわるが,これより康尚の地盤は定朝に引きつがれ,定朝はやがて仏師としてはじめて僧綱位を受け,寄木造の完成や仏所の組織化が彼の功績に数えられ,彼の作品は〈仏の本様〉と称され,後世の規範とされたのである。彼の現存唯一の作品である平等院鳳凰堂阿弥陀如来像は,まさにそのことを証する傑作である。…
…このように像の頭体幹部を,中心となる1材からではなく,複数の材から作る技法を寄木造という。 この一木造から寄木造への移行は,木彫技法の展開上画期的なものであり,1053年(天喜1)の定朝作京都平等院阿弥陀如来座像(像高279cm)に,寄木造の完成した技法が示されている。この像は,頭体幹部を上から見たときに〈田〉の字形になるように4材を矧ぎ寄せて作り,背面の2材は頸回りで一度割り放った後に再び矧ぎ寄せている。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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