覚助(読み)かくじょ

改訂新版 世界大百科事典 「覚助」の意味・わかりやすい解説

覚助 (かくじょ)
生没年:?-1077(承暦1)

平安中期の仏師定朝の子あるいは弟子。1059年(康平2)の法成寺阿弥陀堂・五大堂の復興造営で初めて記録にあらわれ,67年(治暦3)興福寺造仏賞により法橋に叙され,70年(延久2)から始められた円宗寺造仏に,定朝の弟子長勢とともに当たり,法眼となる。京都法勝寺金堂の造営中に死に,院助に引き継がれた。その遺作は現存しないが,その卓抜した彫技を伝える逸話(《古事談》)がのこる。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「覚助」の意味・わかりやすい解説

覚助
かくじょ

[生]?
[没]承暦1(1077)
平安時代後期の仏師。定朝の子。七条仏所の創設者。康平2 (1059) 年の法成寺の造仏をはじめ,同4年平等院塔の『五智如来像』を造り,治暦3 (67) 年興福寺の造仏事業の賞として法橋に叙され,延久2 (70) 年円宗寺の造仏の功により長勢とともに法眼となる。そのほか法性寺,法勝寺などの仏像を造る。遺作は伝存せず,作風はまったくわからない。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「覚助」の解説

覚助(1) かくじょ

1013-1063 平安時代中期の僧。
長和2年生まれ。藤原道雅の子。天台宗近江(おうみ)(滋賀県)園城(おんじょう)寺で行円心誉密教をまなび,同寺花王院主となる。天喜(てんぎ)3年(1055)病死した源経長の妻を修法(ずほう)の験力(げんりき)によって蘇生(そせい)させたという。康平5年四天王寺別当となった。康平6年11月11日死去。51歳。京都出身。

覚助(2) かくじょ

?-1077 平安時代中期の仏師。
定朝(じょうちょう)の子,または弟子という。七条仏所の祖。法成寺,平等院の造仏にたずさわり,興福寺の復興造仏で法橋(ほっきょう),円宗寺の造仏で法眼(ほうげん)の称号をあたえられた。承保(じょうほう)4年10月法勝寺の造仏中に死去。

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世界大百科事典(旧版)内の覚助の言及

【慶派】より

…平安時代半ばごろにおこった仏師の一系統(図)。定朝の子の覚助(かくじよ)(?‐1077)に始まり,康慶や運慶の一門や,その系統の仏師で,その名の一字に〈慶〉字を付すことが多い。鎌倉時代になり京都七条に仏所を置いたので,のちには七条仏所ともよばれた。…

※「覚助」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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