朝日日本歴史人物事典 「覚助」の解説
覚助
生年:生年不詳
平安中期の仏師。定朝の子または弟子と伝えられる。定朝の後継者で,七条仏所を開く。康平2(1059)年の法成寺阿弥陀堂及び五大堂の復興造営で記録に初めて名がみえ,同3年の興福寺焼亡後の金堂釈迦三尊像や南大門仁王像の造立,同4年の平等院多宝塔の造仏に携わる。治暦3(1067)年には興福寺の造仏で法橋に叙され,延久2(1070)年の円宗寺の造仏では長勢と共に法眼位に上った。京都法勝寺金堂の造営半ばにして没し,造仏は院助に引き継がれた。『古事談』には覚助の卓抜した彫技の逸話が記され,近年では京都大蓮寺薬師如来像(延久3年作)がその作品と推定されている。<参考文献>伊東史朗「祇園社旧本地観慶寺薬師如来立像について―覚助・長勢時代の研究―」(『国華』1132号)浅井和春覚恕かくじょ大永1.12.18(1522.1.15)~天正2.1.3(1574.1.25)戦国時代の天台宗の僧。後奈良天皇の子。天文6(1537)年慈運のあとをうけ曼殊院門跡。元亀1(1570)年天台座主となるが,翌年織田信長の延暦寺焼打ちで全山焼亡の厄にあった。没年に異説がある。
(吉沢敬)
覚助
生年:長和2(1013)
平安中期の天台宗の僧。園城寺花王院に住した。出身は京都。父は藤原道雅。行 円,心誉のふたりに密教を学んだ。天喜3(1055)年,大納言経長(源姓とされる)の妻(藤原頼通の娘とされるが確証はない)の病気平癒のため五壇の法を修して祈祷を行ったところ効果があった。そのため頼通の知遇を得て権律師に任ぜられた。康平5(1062)年,四天王寺の別当に任ぜられたが翌年没した。住房の水が乏しかったため祈ったところ,冷泉が湧出したので人々はその池を法泉房と名付けた逸話が残されている。<参考文献>『僧綱補任』,卍元師蛮選『本朝高僧伝』
(追塩千尋)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報