飯田新田(読み)いいだしんでん

日本歴史地名大系 「飯田新田」の解説

飯田新田
いいだしんでん

[現在地名]大宮市飯田新田・塚本つかもと

二ッ宮ふたつみや村の西に位置し、荒川の沖積低地に立地する。現在荒川は当地東側を流れているが、近世には村の西境を流れており、同川を挟んで西は入間いるま大久保おおくぼ村・渋井しぶい(現富士見市)。現在旧荒川筋をびんぬま川が流れる。自然堤防上に集落がある。集落を横切って川越城下へ通ずる道が通り、荒川を昼間ひるま渡で越えていた。植田谷うえたや領に属する(風土記稿)。江戸時代初期には当村を含む周辺一帯は荒川堤外の八貫野はちかんのとよばれる荒蕪地で、植田谷領諸村の入会秣場として利用されていた。

飯田新田
いいだしんでん

[現在地名]成田市飯田町

大袋おおぶくろ村の東方に位置し、北東成田村に続く。享保一二年(一七二七)佐倉牧のうち内野うちの牧の原野の一部を周辺の台方だいかた下方したかた・大袋・飯仲いいなか江弁須えべす公津こうづ新田の六ヵ村が新田開発して成立。開発六ヵ村(本村)が公津を冠称することから当新田も公津を冠称し公津飯田新田ともよぶ。印旛いんば郡に属し、幕府領。同一六年の検地帳(飯田町区有文書)では高二一七石余。六ヵ村の新田の総称であることから年貢割付状などでは「飯田新田之内大袋村分」というように本村ごとに分れていた。

飯田新田
いいだしんでん

[現在地名]頸城村飯田新田

北江きたえ用水に沿い、東に東俣ひがしまた新田、南に百間町ひやくけんまち新田、西に潟口かたぐち新田がある。正保元年(一六四四)に開発がなったおおぶけ新田のうち。正保国絵図飯田村とあり、高一二八石余。明暦元年(一六五五)中谷内なかやち新田の開発がなった時にも、高九二石二斗余が開かれた(平石家文書)

飯田新田
いいだしんでん

[現在地名]小山市平和ひらわ

おもい川左岸に位置し、東端宮戸みやと川が南流する。南は飯田村、北は間々田ままだ町。飯田新田村とも記す。元禄郷帳に村名がみえ、天保郷帳とともに飯田村枝郷と注される。寛文一〇年(一六七〇)飯田村より分村したといわれ、近世を通じて下総古河藩領。元禄郷帳では高二〇二石余。文化一二年(一八一五)の家数二九・人数一〇三(「人別書上帳」岩下久彦文書)。享保八年(一七二三)には野木のぎ宿の定助郷で、勤高二〇二石(「日光街道野木宿助郷帳」坂本重通文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報