駒帰村(読み)こまがえりむら

日本歴史地名大系 「駒帰村」の解説

駒帰村
こまがえりむら

[現在地名]智頭町駒帰

福原ふくわら村の南東、千代川最上流域に位置し、急峻な山々に囲まれる。美作との国境の村で、智頭街道により志戸坂しどざか(人見峠・駒帰峠)を越えた美作国坂根さかね(現岡山県西粟倉村)と結ばれる。この峠越えの道は古代の官道であったとみられ、承徳三年(一〇九九)には因幡国司平時範が因幡国府(現国府町)へ向かうためここを通り、境迎えの儀に臨んでいる(時範記)。江戸時代には智頭街道の宿に指定され、享保六年(一七二一)当地を通った野間義学は因府上京海道記(因州記)に「駒帰、智頭ヨリ三里、鳥取ヨリ十里、但十里八町四十九間也。駅也。入口ヨリ谷川右ニ見ル。宿中、小川流ルル也」と記している。地名の由来は、武内宿禰が因幡に下向するため当地に至ったが、馬が峠を越えられずに引返し、八東はつとう越から入国したという故事によると伝える。また別の伝えでは、佐治さじ余戸よど(現佐治村)の山内与四郎左右衛門が同郷苅地かるち(現同上)の佐治氏との争いに敗れた後、佐治氏が山内氏の名馬を求めようとするが、馬は人見ひとみ坂をさして逃げ、追手が去ると余戸の地に引返したという。このとき何度も当地付近から馬が引返したので「駒還」と称したともいう。枝村に尺原しやくはらがあり(因幡志)、同所は駒帰集落発祥の地ともいわれる。なお千代川上流に当地と白坪しらつぼ大内木下おおちきのした土居の三集落しかなかった頃、この三ヵ所の間では火の種を互いに授受しあう掟があったという。

文明一四年(一四八二)八月一〇日の広峯ひろみね神社(現兵庫県姫路市)社家肥塚家の檀那村書に「因幡国こまかへり五郎左衛門、弥太郎衛門、しやこの原之兵衛(中略)一ゑん知行也」とあり、天文八年(一五三九)一二月吉日の檀那引付にも「こまかえり 衛門」がみえる。さらに同一四年二月吉日の檀那村付帳には「いなは同しやくの原」の刑部など六人の名前が記されている。「しやこの原」「しやくの原」は尺原のことであろう。藩政期の拝領高は五二石余。寛文七年(一六六七)廿日役が半分赦免された(在方御定)。天明六年(一七八六)智頭郡下札帳(石谷家文書)によると朱高五七石余、毛付高八二石余、本免六ツ三分。物成高四七石余から新加損一石・御茶屋守給一石五斗などを引いた四四石余を納めた。ほかに山役銀八匁が課されていた。「因幡志」によると家数三一で、ほかに制札場・番所・御茶屋がある。安政五年(一八五八)の村々生高竈数取調帳では生高八一石余、竈数四三(うち神主一)


駒帰村
こまがえりむら

[現在地名]金沢市駒帰町

瀬領せりよう村の南東、犀川上流東岸に位置し、西方対岸は城力じようりき村。犀川筋、金沢より三里の境目にあたった(改作所旧記)。地名は、かつて村領山際を通る往来があり、そこに滝がかかって駒が通れず引返したことに由来するという(加賀志徴)佐久間盛政が一向一揆を討滅したおり、当村と南東娚杉めおとすぎ村との境、清水しみずという所で戦いがあり、盛政の家臣富永十右衛門が一揆勢の下田喜介に討取られたという(加賀志徴・改作所旧記)正保郷帳によれば高五九石余、田方一町四反余・畑方二町五反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では高六二石であったが、うち六石余は同五年すえ野・土清水つちしようず野新開用水(寺津用水)のため引高になっていた。


駒帰村
こまかえりむら

[現在地名]菟田野町大字駒帰こまがえり

東郷とうごう村西方、宇賀志うかし川沿いにあり、「小曲」(「三箇院家抄」内閣文庫蔵大乗院文書)、「小馬返」とも書く。春日神社文書、室町期の沢氏古文書には「コマカリ」と記し、文化郷帳には「駒皈村」とみえる。慶長郷帳の村高一七〇・九五七石。慶長六年(一六〇一)松山藩(福島高晴)領。元禄八年(一六九五)以降幕府領。「宇陀郡史料」所収の元禄八年の「覚」によると家数二九、人数一三九、真宗道場一、牛九となっている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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