駒形村(読み)こまがたむら

日本歴史地名大系 「駒形村」の解説

駒形村
こまがたむら

[現在地名]三郷市駒形

蓮沼はすぬま村・笹塚ささづか村の西に位置する。幸房こうぼう用水が流れ、平沼ひらぬま(現吉川町)から下総国流山に通じる道が通る。村名は村内の鎮守駒形明神社に由来するという(風土記稿)。田園簿では駒方村とあり、笹塚村を含んでいたと思われ、田一四二石余・畑四〇石余。元禄郷帳では下笹塚駒形村として高二二〇石余。しかし元禄一〇年(一六九七)検地帳(深井家文書)には表題に駒方村とあり、元禄検地時にはすでに笹塚村は分村していたとみられる。同検地帳によると高一六三石余、反別二四町二反余(田一七町五反余・畑屋敷六町六反余)。江戸時代を通じて幕府領であったと思われる(田園簿・改革組合取調書など)。化政期の家数二三(風土記稿)


駒形村
こまがたむら

[現在地名]二ッ井町駒形

米代川の河岸段丘谷間にあり、羽州街道の飛根とびね駅から東へ一〇町過ぎた地点から、南へ七町入った所にある。東は切石きりいし村、西は鶴形つるがた(現能代市)、南は母体もたい(現能代市)、北は米代川河畔の飛根村支郷大林おおばやし村に接する。

文禄元年(一五九二)の秋田実季分限帳(秋田家文書)に「百六拾七石八斗九升 駒形村」とある。

近世に入っても大きな発展はみられず、幕末期の「六郡郷村誌略」には、高一七三石七斗、免五ツ五歩。家居二四戸、人口一二五人、馬六〇匹とある。村内の烏野からすの比井野ひいの村・薄井うすい村の草飼入会地として使用され、安永元年(一七七二)には野役銀一五匁の上納を受けていた(二ッ井町史)


駒形村
こまがたむら

[現在地名]平田村駒形

阿武隈高地の山間部、北須きたす川の水源地域に位置し、北と東は磐前いわさき北方きたかた村、西は小平おだいら村・中倉なかぐら村、南は白川郡論田ろんでん(現古殿町)中世城館が二ヵ所あったが、石川三芦みよし(楓軒文書纂)にみえる「駒形蓬田一族住」とは字小舘こだてにある駒形館跡をさすのであろうか。寛永四年(一六二七)以降白河藩領で、白河古領村郷高帳による高五六七石余。寛文二年(一六六二)頃に本多忠周(前白河藩主本多忠義の五男)の分知領となり、天和元年(一六八一)白河藩領に復したとみられ、のち白河藩領と幕府領の相給となった。


駒形村
こまがたむら

[現在地名]瑞穂町駒形富士山こまがたふじやま

高根たかね村の北にあり、東はぼう村、西は富士山ふじやま村、北は二本木にほんぎ村。北部を不老としとらず川が東方へ流れる。高根村と同じく中世には宮寺郷のうちであったと考えられ、慶長年間(一五九六―一六一五)と推定される入東郡宮寺惣郷高辻(入間市史)では宮寺惣郷のうち旗本太田加兵衛領高二〇〇石のうちに含まれ、同じく田園簿では宮寺町高一千三九一石余のうちの同領高一〇〇石余に含まれていたと思われる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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