高屋城跡(読み)たかやじようあと

日本歴史地名大系 「高屋城跡」の解説

高屋城跡
たかやじようあと

[現在地名]羽曳野市古市五丁目

石川下流西岸、東高野街道と竹内たけのうち街道の接点南方の独立丘陵を利用して築城され、北端高屋築山たかやつきやま古墳付近に本丸、中央部に二ノ丸、南に三ノ丸を置き、それぞれ土塁や堀が巡らされる。本丸は約七ヘクタール、二ノ丸約七ヘクタール、三ノ丸は約一〇ヘクタールを占める大規模な平城。

大乗院寺社雑事記」明応二年(一四九三)三月一日条に「敵方畠山次郎基家之高屋城、誉田与其間三里也」とみえる。しかし事実上高屋城をさすと思われる文献史料はこれよりやや古い。南北朝末期に畠山氏が河内守護として入国して以来、その本城である守護所は若江わかえ(現東大阪市)であったとみられるが(経覚私要鈔ほか)、文明九年(一四七七)九月に畠山義就が河内に下向して東軍の諸城を攻略し、河内一国を制圧したとき、義就は当城の築城に着手したと考えられ、同一一年九月には興福寺の大工座より奈良番匠を多数築城のために召上げている(「大乗院寺社雑事記」同月一五日条)。義就はこの奈良大工徴発のため、被官で大和国人の古市澄胤の勢威を利用している(同書同年閏九月一七日条)

高屋城跡
たかやじようあと

[現在地名]坂出市高屋町 川原

おん山の東麓、通称すべりこ山(城山とも)の丘陵地帯、遍照へんじよう松浦まつうら寺を含めた東斜面に築かれていたと伝える城塁だが、現在その遺構とおぼしきものは何も見当らない。南北朝期細川清氏が拠城した。清氏は将軍足利義詮の執事を勤めたこともあったが、まもなく讒言にあい、謀反の疑いを受けて南朝に帰順。四国平定をねらって和泉国さかい(現大阪府堺市)から渡海し、阿波を経て讃岐に入り三木みきしろ(現木田郡三木町)から高屋に到着し、白峰しろみね山麓に城を構えた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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