高屋村(読み)たかやむら

日本歴史地名大系 「高屋村」の解説

高屋村
たかやむら

[現在地名]坂出市高屋町

神谷かんだに村の北に位置し、東は白峰しろみね山、西はめん山・おん山に限られる。古墳時代頃までは当地北部にまで海岸線が入込んでいたことが明らかにされており、揚北あげきたの高屋遺跡付近が入江の最奥、汀線で、青海おうみ川の河口もその辺りであったと推定されている。古代の阿野あや松山まつやま(和名抄)、中世の松山庄に含まれたと推定され、「御領分中寺々由来」白峯しろみね寺の項に、建長年中(一二四九―五六)神谷村とともに当村も同寺に寄進されたとある。天正一五年(一五八七)一〇月一八日、生駒親正は大山入蔵に高屋郷五〇石五斗を宛行った(「生駒親正宛行状写」大山家文書)。寛永国絵図には高屋庄とみえ、脇に「高屋庄高合弐千八拾七石六斗」とある。この高は神谷・青海両村の高を含んでおり、寛永一七年(一六四〇)の生駒領高覚帳では高八三五石余。同一九年の小物成は綿四二〇目(高松領小物成帳)。用水はおもに神谷村のしん池、すえ(現綾歌郡綾南町)萱原かやはら池から引水、水掛高は合せて六六五石余(池泉合符録)

高屋村
たかやむら

[現在地名]観音寺市高屋町

三豊みとよ平野の西部、東から北に連なる七宝しつぽう山系の南側に広がる平野部、財田さいた川下流域の右岸と左岸に広がり、江戸後期には東西に分れていた。地名の由来を「西讃府志」は「部曲ノ義ニテ、臣、連、国造、伴造ナドニ賜ハリシ部曲ノ領人ノ居ラレシナルヲ、高家トイヘル」と記す。西高屋のとううちに縄文時代のなつめの貝塚がある。また東高屋の岡東おかひがし集落には弥生中期から古墳時代にかけてつくられたと思われる箱式石棺墓が数基あり、前の原まえのはら遺跡とよばれる。古代の苅田かりた郡高屋郷(和名抄)の遺称地で、苅田郡条里の二条一二里にあたるとされ、二ノ坪・三ノ坪・四ノ坪・七ノ坪・八ノ坪の地名が南北に並んで残る。

高屋村
たかやむら

[現在地名]井原市高屋町

現井原市の西端に位置する。高原状の地が大半を占め、北端大仏おおぼとけの標高は四〇〇メートルを超える。集落は小田おだ川の支流で南東流する高屋川の流域に散在。東は笹賀ささか村・下出部しもいずえ村など、西は備後国安那やすな上御領かみごりよう村・三谷みたに(現広島県深安郡神辺町)など。南辺を山陽道が東西に走り、同街道備中国西端の高屋宿が置かれた。吉備津神社の流鏑馬料足納帳に康正二年(一四五六)分として「五貫文内たかや三貫文 両所分」「四貫文 たかや米用 直納」とあり、同年一〇月一九日の紀年銘のある高山こうざん寺の梵鐘には「備中国高野郷」と刻される。笹賀村境、きようまる(二八一メートル)の西方に小見山こみやま(高屋)城跡がある。

高屋村
たかやむら

[現在地名]珠洲市高屋町

笹波ささなみ村の北にある海村。外浦街道が通り、小浦こうら徳保とくぼの垣内がある。日和ひより山・いそ岳および岩礁に抱かれた入江は、小廻和船にとって外浦で北西風から避難できる唯一の湊であり、寛文四年(一六六四)以来、夏に破船奉行が置かれた。「能登志徴」によれば、正保三年(一六四六)の高辻帳に高屋村と書上げられたのに、村御印の書換えのとき村方からの申立てで高井たかい村と改めたが、寛文四年の高辻帳で再び高屋になったという。承久三年(一二二一)九月六日の能登国田数注文に「高屋浦」とみえ、公田数は二町四段九。享禄四年(一五三一)閏五月一九日、遊佐総光は法住ほうじゆう寺に「高井」の田地一〇〇刈を寄進しており(「遊佐総光寄進状」法住寺文書)、当地とみられるが断定はできない。戦国後期頃の能登内浦村々給人注文写(諸橋文書)でも高井とあり、長氏の知行地であった。

高屋村
たかやむら

[現在地名]糸貫町上高屋かみたかや

有里ありさと村の北に位置し、根尾ねお川東岸の緩傾扇状地平野に立地。天文一八年(一五四九)五月二二日の斎藤道三折紙(安藤鉦司氏所蔵文書)によれば「上秋之内高屋上下」より真桑まくわへ井水を取ることを許可している。上秋かんだけ庄の東域が近世初めには東上秋村となり、このうちに含まれた。慶長郷帳では東上秋村とみえ西尾嘉教(揖斐藩)領高一千五六一石余の内。元和九年(一六二三)西尾氏断絶により幕府領となり、一部は寛永八年(一六三一)旗本岡田領となり、残りは同一二年から大垣藩領となった。

高屋村
たかやむら

[現在地名]北方町高屋

柱本はしらもと村の南に位置し、根尾ねお川緩傾扇状地末端の平野に立地。西境付近を糸貫いとぬき川が南流する。集落は同川堤沿いにある。古代条里の遺構が残り県指定史跡。慶長六年(一六〇一)加納藩領となる。慶長郷帳に村名がみえ、高一千七〇九石余。馬場ばば(現穂積町)分を含んでいた。加納藩家中知行渡方帳(森文書)によれば高屋村・馬場村に分れており、慶長一七年から数年間は高屋村一千二八二石余を重臣矢沢豊前が知行していた。元和二年(一六一六)の村高領知改帳では高一千七〇九石余、奥平忠隆(加納藩)領。

高屋村
たかやむら

[現在地名]丹波町字富田とみた

須知しゆうち野の北部に位置し、北流する高屋川の西側山麓に集落を形成する。東は十勢じつせ村、南は蒲生こもう村、南から西にかけて坪井つぼい村、北は知野部ちのべ村、質美しつみ(現瑞穂町)

康正二年造内裏段銭并国役引付に「丹波国山田庄高屋村」とみえる高屋村を現園部そのべ町の高屋とする説(大日本地名辞書)もあるが、同地は桐野河内きりのこうち(村)に含まれると思われるのでこの想定は疑わしい。年号は不明だが、室町時代のものと思われる蜷川家文書断簡に、「丹波山内庄八ケ村 小川殿御料」のうちとして「高屋村 奉公衆之給分」と記されるので、前記の造内裏段銭并国役引付の「山田庄」はむしろ山内やまのうち庄の誤記と考えられる。

高屋村
こうやむら

[現在地名]亘理町逢隈高屋おうくまこうや

西は小堤こづつみ村、南は長瀞ながとろ村、北東は高須賀たかすか村端郷荒浜あらはま。東のとりうみ近くに端郷鳥屋崎浜とやざきはまがある。長瀞村端郷の長瀞浜と入会って亘理伊達氏の足軽町柴町しばまちがある。正保郷帳では田六一貫二六四文・畑四貫三六〇文。「安永風土記」では田七九貫五四二文・畑五貫五〇八文。このうち蔵入地は新田一貫五六二文で、残りは亘理伊達氏の知行地(うち新田一七貫九四〇文)。人頭一六人のうち寛永一九年(一六四二)の竿答百姓八人、百姓家数二〇(うち名子一・水呑三)、男五七・女三八、馬一三。

高屋村
たかやむら

[現在地名]西淡町松帆高屋まつほたかや

江尻えじり村の南、三原川下流域南岸の低地に立地する。脇田わきだ村をなかに挟んで上傍示かみぼうず(沖田)・下傍示(浜)に分れている。上傍示にある八幡神社(通称塩竈八幡神社)の天文一三年(一五四四)の棟札に「此度再建塩浜高屋脇田三ケ(邑カ)」と記されていた(兵庫県神社誌)。天正一四年(一五八六)一一月三日の淡路国御蔵入目録に「たかや大夫分」とみえ、高四九石(後筆貼紙では三六石余)羽柴秀吉の蔵入地であった。正保国絵図に高野村とみえ、高二四二石余。天保郷帳では高二八六石余。反別戸数取調書では反別三三町三反余、高五二二石余、うち蔵入地高二四〇石余、高二八二石余は長谷川相模ら七名の給知。

高屋村
たかやむら

[現在地名]江南市両高屋りようだかや

宮後みやうしろ村の北にあり、西境を般若はんにや用水が流れ、村中央に人家が集中していた(天保村絵図)河内山かわちやま本地ほんじの二支郷があった(尾張国地名考)。慶長一三年(一六〇八)の高屋村検地帳(両高屋区有)に字名がみられ、札掛ふだかけ薬師腰やくしごし遠場とおば花池戸はなちとは現存する。「神鳳鈔」に「外宮高屋御厨」とみえ、八社はつしや明神(現高屋神社)にある大杉の辺りがこの跡であるという(尾張名所図会)

「徇行記」によれば、概高五五五石余のうち二九三石余は藩士六人の給知。

高屋村
たかやむら

[現在地名]山陽町高屋

上市かみいち村の東の山の根に集落がある。天正二年(一五七四)一〇月二三日の浦上宗景宛行状(黄薇古簡集)で、鳥取ととり北方のうち「高屋道筋分」ほかが花房与左衛門に与えられている。慶長一〇年(一六〇五)備前国高物成帳(備陽記)の鳥取庄に高屋村が載る。寛永備前国絵図には高屋とみえ高一七四石。貞享元年(一六八四)の赤坂郡高目録(池田家文庫)によると慶長九年検地があり、高一九四石余。貞享元年には荒などを引いた残高一八四石余。享保六年(一七二一)は田畠一二町五反余、家数九・人数四九、池四、東部に四ッ堂があり本尊は観音(備陽記)。文化年間の「岡山藩領手鑑」では直高二八一石余、蔵入地と天城あまき(現倉敷市)の家老池田和泉の給地。

高屋村
たかやむら

[現在地名]大垣市高屋町・錦町にしきまち

水門すいもん川上流の牛屋うしや川右岸平坦地に位置し、南は大垣城下に接する。永仁三年(一二九五)六月の大井庄検注名寄帳案(京都大学付属図書館蔵)に「太郎丸高屋八郎則里」の名がみえるが、当地の住人であろうか。江戸時代を通じて大垣藩領。慶長郷帳に村名がみえ、村高一二二石余。正保郷帳では田高一〇一石余・畑高一九石余・桑木高二斗余。貞享二年(一六八五)の大垣領村々高帳では高一四七石余、宝暦五年(一七五五)の大垣藩筋分高附帳(大角文書)には林高屋村とみえる。

高屋村
たかやむら

[現在地名]園部町高屋

大堰おおい川右岸の村で、北から東は大堰川を境に越方おちかた村・佐切さぎり村に対し、南は大戸おおど村、西は曾我谷そがだに村、北は上河内かみこうち村。村域の西半分以上は山地、大堰川沿いに農耕地があり、山麓部に南北に細長く集落がある。

江戸時代には郡内に同名村(現丹波町)があったため「桐ノ高屋村」(元禄一三年丹波国郷帳)と記されたり、「東高屋村」ともよばれ、また下河内しもこうちとも通称された。「桐ノ」とあるので、あるいは中世桐野河内きりのこうち郷に含まれていたのかもしれない。知行の内訳は旧高旧領取調帳によると一六四石余が園部藩領、九七石余は旗本滝川主殿の知行地。

高屋村
たかやむら

[現在地名]寒河江市高屋

しま村本村の東、寒河江川扇状地末端の段丘崖に立地し、南は島村枝郷皿沼さらぬま、東は最上川で限られる。六十里越街道が通る。大江元政の息某は出家して覚如と号し、「高(屋カ)天神別当」と称している(「天文本大江系図」菅井半五郎氏旧蔵文書)。高屋台の下に天神社が存する。南北朝末期には大江元時の弟元詮が当地に館を構えたと伝え、前掲系図の元詮の左注に「六郎上総守 号高屋」とある。館主はその後、元朝―元勝―元佐―元安―知政―知近―利晴と続いた(前掲系図ほか)。一八世紀に書かれた「宗古録」には「高屋館 寒河江の東の隣村也、寒河江城主大蔵太夫時氏ママ舎弟高屋六郎元詮といふ人居城の跡有て今は土民の居宅地となれり」とある。

高屋村
たかやむら

[現在地名]岩木町高屋

百沢ひやくざわ道に沿い、東は熊島くましま村、北は横町よこまち村支村野崎のざき、西は五代ごだい村、南は一町田いつちようだ村に接する。南北に走る落差二―四メートルの断層の上の西側にある。村名の由来については近衛尚道の館があった、近衛前久(竜山)が逗留した、花山院忠長が居住した、橘次信春が居城したなど諸説がある。

正保二年(一六四五)の津軽知行高之帳に鼻和はなわ郡のうちとして村名がみえ、村高は六一二・〇六石、うち田方五六二・〇二石である。貞享四年(一六八七)の検地帳によれば村高は七〇六・六八一石、うち田方六一四・三〇六石、畑方九二・三七五石で、上田と中田が田方の六三・六パーセントを占める。

高屋村
たかやむら

[現在地名]福井市高屋町

山室やまむろ村の南に位置する。天正一三年(一五八五)閏八月二二日付の堀秀政知行安堵状(多賀家文書)に「河合庄高屋村」とある。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では「川合上之郷」に含まれていたものと思われるが、寛永元年(一六二四)七月一五日付の越前国府中三国領知行帳(佐久間家旧蔵文書)には記され、高一六七三・三石とある。正保郷帳によれば田方九二一石余・畠方七五二石余。福井藩領。

安永二年(一七七三)福井藩金津領村鏡(高橋家文書)によると、田方八七三石三斗・三六町二反余、畑方八〇〇石・二〇町。家数一〇五・人数四七二。

高屋村
たかやむら

[現在地名]豊岡市高屋

正法寺しようぼうじ村の西から北にかけて村域が広がり、東は豊岡城下に接する。承久三年(一二二一)七月「但馬ノ室ノ朝倉」へ流された雅成親王(慈光寺本「承久記」)の配所はこの地と伝え、墓所(雅成親王陵)がある。「蔭涼軒日録」長享二年(一四八八)九月二日条には、播磨遠征から但馬へ帰国した山名政豊が入った正法寺を被官の垣屋氏と太田垣氏が囲んで「室野」に陣したとあるが、「室」「室野」とも当地域の古名とみられる。江戸時代の領主の変遷は小尾崎こおざき村に同じ。正保(一六四四―四八)頃成立の国絵図に村名がみえ、高三七三石余。宝暦七年(一七五七)の但馬国高一紙でも同高。

高屋村
たかやむら

[現在地名]篠山市高屋・川西かわにし

旧西紀町域の南西部、宮田みやだ村の南に位置し、宮田川が南流する。地内にいちつぼ・二ノ坪などの地名があり、但馬山名氏の一族という山名氏が当地に拠点を置いていたという。慶長一三年(一六〇八)の多紀郡桑田津之国帳に「高屋村」とみえ、高二三二石余。正保郷帳では田高二〇三石余・畠高一八石余。元禄郷帳では高二二四石余。「丹波志」に河内かわち郷のうちとしてみえ、高二三二石余。天明三年(一七八三)の篠山領内高並家数人数里数記では高屋組のうちで、高二三二石余、家数三〇・人数二六四。

高屋村
たかやむら

[現在地名]鹿角市花輪はなわ 高屋など

鹿角盆地西側山麓、山間部を北流して米代川に注ぐ花軒田はなのきだ川下流に位置。周辺台地上に縄文後期遺跡が二、三ヵ所ある。寛政(一七八九―一八〇一)頃の「邦内郷村志」に村名が出る。

近世初期の「鹿角郡由来記」に「高屋村 高屋筑前領知 本名秋元 館有」とあり、中世後期には開村していた。集落南側台地上の中世館跡は連郭状平坦面と空堀などを残す。付近に小字名茶臼館ちやうすだてたてさわと八幡神社がある。比高三〇―四〇メートル、北・東側に帯郭状地形が一部、さらに東側に人工の平坦面がみられ、東を米代川、西を花軒田川で区切る。

高屋村
たかやむら

[現在地名]井波町高屋

専勝寺せんしようじ村の北に位置。ほぼ中央部を野尻口のじりぐち用水(二万石用水)が北西流する。貞享元年(一六八四)の村名由緒書上(加越能文庫)に、隣村の荒高屋あらだかや(現砺波市)は当村領の原野を新開して村立てされ、新高屋村と称したとある。元和五年(一六一九)の家高新帳に村名がみえ、役家数四、いわや組に属する。正保郷帳では高二二八石余、田方一四町九反余・畑方三反。

高屋村
たかやむら

[現在地名]落合町高屋

西隣のかげ村とともに山山麓に位置し,北辺を東流する当摩たいま川沿いに平地が広がる。東は福田ふくだ村。正保郷帳では田高一〇六石余・畑高三三石余。元禄一〇年(一六九七)美作国郡村高辻帳によると村位は下、改出高六九石余・開高五石余。

高屋村
たかやむら

[現在地名]岡山市高屋

勅旨ちよくし村の西にあり、山陽道が通る。慶長一〇年(一六〇五)備前国高物成帳(備陽記)はた郷に村名がみえ、寛永備前国絵図では、高七八八石余。「備前記」によると平場の集落で、山陽道の茶屋があった。「備陽記」では田畑四八町八反余、家数五二・人数二六九。文化年間の「岡山藩領手鑑」によれば直高一千三九四石余、蔵入と家臣八人および台崇寺の給地。

高屋村
たかやむら

[現在地名]高浜町高屋

小和田こわだ村の北、青葉あおば山麓にある小村。あお村から小和田村を経て中山なかやま寺へ向かう参詣道が通る。「若狭郡県志」に「高屋村属青郷、去小浜六里許也」とあり、正保郷帳によれば田方五五石余・畠方一一石余。

高屋村
たかやむら

[現在地名]三重町松尾まつお 高屋

広瀬ひろせ村の南東、北西流する三重川支流高屋川流域にある。文政(一八一八―三〇)頃までに松尾村から分村したらしく、同六年には小坂組に属した(万用集)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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