高屋郷
たかやごう
「和名抄」高山寺本・東急本ともに「高屋」と記し、前者が「太加夜」、後者が「多加也」と訓を付す。「芸藩通志」は「高屋も庄号に現存す」とする。「日本地理志料」は高屋東・高屋堀・白市・貞重・郷・重兼・溝口・中島・杵原の諸村(現東広島市)を郷域に比定。
高屋郷
たかやごう
「和名抄」では名博本が「高度」と記すが、「度」に「屋」の修正を加えており、文字の異同はない。いずれも訓を欠くが、「太宰管内志」は「多加也と訓ムべし」とする。「宇佐大鏡」所載の宇佐大宮司公順処分状に仲東郷城井浦の四至として「限東屋岡 限南高座 限西仲西郷高屋浦上道 限北加女淵」とみえることから、当郷は城井郷の西にあったと考えられる。
高屋郷
たかやごう
「和名抄」東急本・高山寺本ともに訓を欠く。「日本地理志料」は「多加也」と訓を付す。「延喜式」(兵部省)諸国駅伝馬に「高屋」駅があり、駅馬五疋を置く。
高屋郷
たかやごう
「和名抄」は諸本とも訓を欠くが、高屋以外の表記も見いだせず、タカヤでよいと思われる。郷名は平城宮跡出土木簡に「□前郡高屋里」とある以外に所見はない。天禄三年(九七二)五月三日の天台座主良源遺告(廬山寺文書)にみえる高屋庄は当郷の庄園化したものであろう。
高屋郷
たかやごう
「和名抄」東急本には「多加也」と訓を付す。中世には公領の高屋郷がみえる。現観音寺市高屋町を遺称地とし、財田川右岸の同市北西部一帯から左岸の流岡町・吉岡町を含む地域に比定される。
高屋郷
たかやごう
「和名抄」東急本は「多加也」と訓ずる。天平神護二年(七六六)一〇月二一日付越前国司解(東南院文書)に郷名がみえる。また宝亀一一年(七八〇)一二月二五日付西大寺資財流記帳(西大寺文書)にみえる「坂井郡高屋庄」は当郷内に成立したと考えられる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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