高庭庄(読み)たかばのしよう

日本歴史地名大系 「高庭庄」の解説

高庭庄
たかばのしよう

高草郡にあった奈良東大寺領の初期庄園。現在の野坂のさか川下流域の鳥取市しま付近から布勢ふせにかけての一帯と、賀露の湖山かろのこやま川東岸一帯に比定される。

聖武天皇の施入地として天平勝宝八年(七五六)一〇月一日の官符により、東大寺野占使らが当地に赴き因幡国掾・同目とともに庄地七三町八反七五歩を点定した。庄地は北一条散岐里・北二条土浦東里外・北三条草尾田里・北四条井門里・北七条大坊里・北八条蓼田里北里外に散在していた(承和九年七月二四日「因幡国司解」東南院文書など、以下とくに断らない限り同文書)。東大寺は高草郡の在地豪族の国造難磐(勝磐)墾田長に任命して開発と経営に当たらせたが、同人はまもなく東大寺に対して負債を負ったまま死亡または逃亡したと推定され、天平神護元年(七六五)難磐の妻子は所有する墾田を負物にかえて東大寺に売却し、因幡国司・同国師はこれを了承し寺領として立券した(同年四月二八日因幡国司牒など)。難磐の墾田は五町八反二一六歩、うち無実田は六反二七二歩、見定田は五町一反六〇歩で、北三条岳田里・北四条虹田里・北七条蓼田里・速見里・船津里・南一条海別里・海別里西里外に散在し(承和九年七月二一日高庭庄預僧霊俊解)、およそ野坂川中流域と北部の平野部に比定される。

難磐の離脱などのため庄田の開発は順調には進まず、宝亀四年(七七三)の段階でも東大寺田とされているのは八筆二町四反余にすぎず、うち三筆は以前百姓治田であったものを買得した地と推定される(延喜五年九月一〇日坪付注進状案)。東大寺が当庄経営の意欲を失っていることを伝え聞いた参議藤原縄主からの買得の申出を受け、延暦二〇年(八〇一)東大寺三綱は開発の力がなく将来無用の地となるであろうとして、当庄の倉見葦原・郡門野(郡門葦原田)計五五町一反三九歩を稲四千束で縄主に売却(延喜二〇年一二月一六日東大寺三綱牒案)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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