日本のテレビジョン技術の開拓者。静岡県生まれ。1921年(大正10)東京高等工業学校(現、東京工業大学)附属教員養成所を卒業。1923年フランスの雑誌に掲載されていた未来のテレビの絵に感銘を受け、1924年浜松高等工業学校(現、静岡大学工学部)助教授となり、念願のテレビ開発に没頭。当時、電子式撮像方式は実現しておらず、1926年(大正15)12月25日撮像に機械式のニプコーの円板、受像にブラウン管を用いて、「イ」の文字を電送・受像することに成功した。1928年(昭和3)には人物の顔の電送に成功。1930年「積分方式を利用するテレビジョン送像器」の特許を出願。同じころアメリカのツウォリキンもほぼ同じ原理の特許を出願し1933年アイコノスコープを製作した。高柳は1935年に改良したアイコノスコープにより屋外での電送に成功、1936年全電子式テレビ(走査線245本)を完成させた。1937年NHK技術研究所に移って、1940年に開催の予定であった東京オリンピック中継を目標に本格的な開発研究に入り、同年には走査線441本・画像数毎秒30枚のテレビを完成した。また、1939年日本初のテレビジョン放送公開実験に成功した。第二次世界大戦後は日本ビクター(現、JVCケンウッド)に勤め、テレビの改良と技術者の育成に尽力、1980年文化功労者に選ばれ、1981年文化勲章を受章した。
[高山 進]
『高柳健次郎著『テレビ事始――イの字が映った日』(1986/オンデマンド版・2001・有斐閣)』
大正・昭和期の電子工学者 元・日本ビクター副社長。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
日本のテレビの礎をきずいた技術者。静岡県に生まれ,1920年に東京高等工業学校(現,東京工業大学)付設の工業教員養成所を卒業した。23年浜松に新設された浜松高等工業学校(現,静岡大学工学部)に赴任し,テレビジョンの研究を始めた。当時のテレビ研究は機械式のものが主流であったが,彼は全電子式テレビの開発をめざした。受像側については,高真空多極ブラウン管や受像回路の発明を行った。送像側については,30年に積分方式による撮像を提案した。これは別個にRCA社のV.K.ツウォリキンにより撮像管アイコノスコープとして開発された。40年に開催予定であった東京オリンピックをテレビ放送することになり,高柳は1937年からNHK技術研究所でその準備をすすめた。39年にはこのテレビの実験放送が始まった。第2次世界大戦後は,浜松工専,日本ビクターにおいてテレビの研究をすすめるとともに,テレビ技術者を育てた。80年には文化功労者となり,81年に文化勲章を受章した。
執筆者:高橋 雄造
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出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
…本格的なテレビ研究,開発の前段階である。 1904年にイギリスのJ.A.フレミングが二極真空管を,05年にアメリカのL.デ・フォレストが三極真空管を発明したことによって,電子を制御することによりいろいろな電子効果が得られることがわかり,電子技術が台頭し,テレビの研究が本格化した 日本では27年に高柳健次郎が撮像にニプコー円板とセレン光電管(光の強弱を電流の強弱に変換する真空管)を使用し,電光素子にブラウン管を用いた走査線40本,1秒間当りのコマ数14のテレビを成功させた。これは当時としては世界でもっとも高い水準にあった。…
※「高柳健次郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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