改訂新版 世界大百科事典 「鮓」の意味・わかりやすい解説
鮓/鮨 (すし)
魚貝などを米飯といっしょに漬けこみ,乳酸発酵させた貯蔵食品。または,酢で味をつけた飯に魚貝,野菜などを配した料理。前者はすしの原形とされるもので馴(な)れずし(熟(な)れずし)と呼び,現在の日本で代表的なのは〈近江(おうみ)のフナずし〉であろうが,東南アジアから中国の一部にかけてかなり広く行われているものである。後者は握りずしに代表されるもので,日本独特の米飯料理である。すしは,鮓,鮨,寿司,寿志,寿しなどと書かれるが,鮓と鮨のほかはすべて江戸中期以後に使われるようになった当て字であり,また,〈すもじ〉〈おすもじ〉というのは室町時代から使われた女房ことばである。鮓と鮨はともに古い漢字で,代表音は鮓がサ,鮨がシである。前4~前3世紀の成立とされる中国最古の辞書《爾雅(じが)》と2世紀初めの成立という《説文解字(せつもんかいじ)》によると,鮨(し)は魚の塩辛であった。鮓(さ)の方は,《説文解字》は〈蔵魚〉,つまり魚の貯蔵品だとしている。また,2世紀末の《釈名(しやくみよう)》は鮓を〈菹(しよ)〉,つまり漬物であると定義し,塩と米飯で魚を醸して菹とし,熟してのち食べるといっている。以上のように,古代中国では鮨と鮓とは別物として区別されていたようである。
馴れずし
《釈名》に見られる鮓のような馴れずしは,日本では近世まで盛んにつくられていたものだった。魚に塩をあてて飯といっしょに漬けこみ,おもしをかけて半年,1年と熟成させて魚だけを食べる。まさに魚の漬物なのであるが,こうした食品が東南アジアに分布することを日本人が知るようになったのは1915年のことだった。その年刊行された《台湾蛮族志》によって,台湾の北方山地民の間で,川魚,あるいはブタ,イノシシ,シカなどの肉をアワや米の飯に漬けこんで,トワメなる保存食品をつくっていることが紹介されたためである。以来しだいに調査が進み,近年ではヒマラヤ山麓地方からタイ,ラオス,カンボジアの山地民,ボルネオの焼畑耕作民その他のなかに,こうした馴れずしをつくる文化のあることが報告され,馴れずしが東南アジアの山地民の中で川魚の貯蔵法として発祥し,それが稲作にともなって日本へ流入したものとも考えられている。馴れずしは,現在の精製されたフナずしでさえ鼻もちならぬ臭気をもつことがあり,タイ語で〈臭い魚〉の意味のプラハーと呼ばれることももっともと思われる。また,《今昔物語集》巻三十一には酒に酔ったアユずし売りの女が,売物を入れた桶の中にへどを吐き,慌ててそれをかき混ぜて知らん顔をする話があり,〈鮨鮎本ヨリ然様(さよう)ダチタル物〉,つまり,アユずしはもともとそうしたきたないもの,という感想も述べられている。まさに日本の馴れずしも,タイのプラハーなどと同源であることをうかがわせるが,ただ一つ,日本のものが他と異なるのはおもしをかけることである。そして,現在の握りずしや箱ずしにしても,手や箱で握り押すところに味の出どころがある。
日本のすし
日本では古くから鮓,鮨,いずれの字も〈すし〉と訓じてきた。本来別物であるべきものを混同しているのだが,この混同は,実は漢字が日本にもたらされる以前に中国で起こっていた。すなわち,3世紀成立の《広雅》や4世紀の《爾雅注(じがちゆう)》に,〈鮨は鮓〉〈鮨は鮓の属〉といった記述が見られ,それをそのまま受容した結果,〈すし〉を表記するのに鮓,鮨の両方を用いたようである。日本の文献で鮓,鮨の字が見られるのは養老令や平城宮址出土の木簡からで,それらには〈鰒鮓〉〈貽貝鮓〉〈多比鮓〉とアワビ,イガイ,タイのすしのほか,数種の魚貝をいっしょに漬けたらしい雑鮨などの記載がある。平安時代の《延喜式》になると,魚貝の種類が増加するほか,〈鹿鮨〉〈猪鮨〉とシカやイノシシのすしが出現し,また,どういうわけか鮓の字の使用が少なく,もっぱら鮨の字が使われている。魚貝類では上記のもの以外に,フナ,アユ,サケ,アメノウオ,ホヤ,イワシ,イイダコ,雑魚(ざこ)があり,手綱鮨という内容不明のものもあった。
室町時代は日本のすしに大きな画期をもたらした時代である。前代からの馴れずしはウナギ,ドジョウ,ナマズなど新しい材料を加えて盛んにつくられていたが,同時に馴れずしでは食べなかった飯を食べるものにした生成(なまなれ)/(なまなり)というすしが発明されたのである。ウナギの馴れずしは宇治丸(うじまる)とも呼ばれた。ぶつ切りにしたウナギを塩を入れた酒に1晩漬け,そのあと米飯と塩で漬けこむといったものだったようで,狂言の《末広がり》や《目近(めぢか)》に見えるドジョウの馴れずし同様,ごくあたりまえの食べ物だった。ナマズのそれについては,馴れずしならではの付合(つけあい)が《犬筑波集》に見られる。生成は室町中期ごろに始まったと思われる。〈生ま馴れ〉,つまり熟成していない馴れずしという意味で,米飯と塩だけで酢を使わずに漬けこみ,3~4日から10日くらいで食べるもので,アユ,フナ,コイが多く使われた。タケノコ,ミョウガ,ナスなどを使う野菜のすしも室町中期から現れてくる。これらの野菜ずしも適宜に塩かげんした飯で,飯と野菜を交互に漬けておもしをかけ,1~2日して食べるものであった。やがて酢を用いてすしの熟成を早める方法がくふうされるようになった。《料理塩梅集》(1668),《合類日用料理抄》(1689),《本朝食鑑》(1697)などからそれが見られるようになり,元禄(1688-1704)ころには一般化していたと思われる。こうして,酢飯を箱に詰め,その上にすし種の魚貝をのせ,落しぶたをして上からおもしをかけて数時間押すという箱ずし(押しずし)が考案された。箱ずしは,でき上がったものに包丁を入れてひと口大に切ったので切りずしともいい,関西では杮(こけら)ずしという。こけらぶきの屋根のように薄い切身を並べることからの呼称である。また,切りずしを1個ずつクマザサで巻き,軽いおもしをかけた笹巻(ささまき)ずし(毛抜きずしともいう)が考案された。そして,切りずしの一切れ,笹巻ずしの1個を下敷きにしてくふうされたのが江戸の握りずしである。
握りずしは文政年間(1818-30)に江戸両国の与兵衛ずしの初代,花(華)屋与兵衛(1799-1858)の創案になるとする説があるが,それ以前にもなん人かが試みていたという説もあるから,与兵衛がそれを完成,定着させたものというべきであろうか。《誹風柳多留(はいふうやなぎだる)》第108編(1829)に〈妖術といふ身で握る鮓の飯〉という句がある。すしを握る手さばきが芝居で演ずる忍術使いの所作に似ていることをいったもので,当時まだ握りずしがもの珍しかったことを示している。これが握りずしの存在を示す最古の文献であり,握りずしが売り出されたのは1824-25(文政7-8)ころとする通説も,まんざら捨てたものではない。やがて江戸は握りずし全盛の時代を迎え,箱ずしは急速に衰退した。江戸には〈毎町一,二戸〉といわれるほど多くのすし屋があったが,その中には両国の〈与兵衛ずし〉や深川安宅(あたけ)の〈松のすし〉をはじめ,ぜいたくで高価なすしを売る店も少なからずあり,天保改革の際には200余人のすし屋が手鎖(てぐさり)に処されたという。以後,安価なコハダずしや稲荷ずしが普及するようになったが,稲荷ずしは名古屋で始まり,江戸に入ったとされる。大坂では文政末年に道頓堀戎(えびす)橋南で握りずしを売る店ができ,以後これに倣う店が出たが,主流はやはり箱ずしで,明治から大正にかけて関東の握りずし,関西の箱ずしという状況が続いていた。
すしの種類
すしは,そのつくり方から大別して馴れずしと早ずしに分けられる。馴れずしは前記のように,飯の自然発酵によって生じた乳酸が酸味を与えるもので,生成もその一種である。これに対して,酢を添加することによって酸味を与えるのが早ずしで,現在のすしはほとんどこれに属する。箱ずし,握りずしのほか,姿ずし,棒ずし,巻きずし,稲荷ずし,ちらしずし,蒸しずしなどの種類がある。姿ずしはアユずしが多いが,マスを使うところもある。アユずしは全国的に分布し,馴れずしから生成へと変化し,さらに早ずしになったものが多い。《義経千本桜》で知られる奈良県吉野下市(しもいち)の〈釣瓶(つるべ)ずし〉はつるべ形の桶に漬けこんだアユの生成の一種である。大阪,和歌山の小ダイの雀(すずめ)ずしは,もとは江鮒(えぶな)(ボラの幼魚)の胸びれを翼のように左右に広げて漬けた生成であったが,天明(1781-89)以後は,なまぐさく皮のかたい江鮒に変えて小ダイにし,さらにそれが箱ずしになったものである。棒ずしでは京都のサバずしが有名で,江戸時代から祇園祭には欠かせぬものであった。同じくサバを用いるものに大阪のバッテラがある。これは明治中期に考案されたもので,コノシロの片身を用いた形が小舟のようだというのでオランダ語でボートの意のバッテラと呼ばれるようになり,その後コノシロの値が上がったのでサバに変えたものである。
巻きずしには,ノリ巻,卵巻などがある。関東ではノリ巻が多く,かんぴょうを入れて細く巻くのが基本で,マグロを芯にしたものを鉄火巻,たくあん漬などを用いたものを新香巻,生のキュウリを使ったものをかっぱ巻などという。関西ではノリ巻,卵巻がともに愛好され,芯には卵焼き,シイタケ,かんぴょう,凍豆腐,ミツバその他を取り合わせて用い,太巻にする。厚焼卵で巻いたものを関東で伊達巻(だてまき)と呼ぶ。薄焼卵で包む茶巾(ちやきん)ずしや,熊野灘沿岸地方に見られるめばりずし(タカナの漬物で包んだもの)なども,巻きずしの類品といえようか。稲荷ずしは前記のごとく江戸に伝えられたが,簡便さと安価なところから,たちまち全国的に広まったようである。油揚げが,稲荷神の使いとされるキツネの好物だとするところからこの名があり,また,葛(くず)の葉伝説の信太(しのだ)の森のキツネにかけて,〈しのだずし〉とも呼ぶ。ちらしずしは,関東では五目ずし,関西ではばらずしと呼ぶことも多い。さまざまな材料をそれぞれ適宜に味付けして酢飯に合わせるもので,広く家庭でつくられるが,とくに岡山地方の祭ずし,加賀の御贄(おにえ)ずし,鹿児島の酒(さか)ずしは名物として知られている。祭ずしは瀬戸内海の魚貝類を豊富に使い,御贄ずしと酒ずしは飯と具を合わせたのち,おもしをかけて数時間馴れさせる。ただし,御贄ずしは飯,具ともに酢を使うのに対し,酒ずしは酢を使わず,特産の地酒(じしゆ)を用いるのが特徴である。蒸しずしは,ちらしずしを蒸して温めた形のもので,〈ぬくずし〉とも呼ばれ,大阪,京都をはじめ関西各地で行われている。
すし飯のこつ
日本の家庭では,年中行事や祭礼に際して,すしをつくることが多い。すしをつくる場合,もっとも重点がおかれるのは,すし飯(酢飯)のつくり方で,これは家庭でつくる場合もまったく同じである。
おいしいすし飯をつくるには,飯はややこわめに炊き,たっぷり蒸らす。これを半切(はんぎり)桶などに移して合せ酢を打つ。酢はかならず上質の醸造酢を使う。分量は,米1升(約1.8l)に対して酢1合(約0.18l)というのが昔からの標準で,これに砂糖小さじ1~2杯,塩小さじ2~3杯を加えた合せ酢にする。ただし,味はあくまでつくる人の創造であるべきなので,昔風に酢と塩だけの合せ酢を用いてもよい。砂糖はグラニュ糖,塩は粗塩(あらしお)がよいが,粗塩のない場合は食卓塩を無臭のフライパンなどでいって用いる。飯に合せ酢をふりかけ,しゃくしで飯を切るようにしながら混ぜる。この際注意したいのは,混ぜながらうちわなどで風を送らないことで,これをやると水分が早くとんで,合せ酢が飯全体に混ざりにくくなり,飯の光沢も消える。そこで,すっかり混ぜ終わってからさっと風を送り,飯の表面の湯気がひとまず消えたら,今度は飯を裏返して残りの湯気をあおぎ消し,人肌程度にまで冷ますのが定法である。以上は関東風のすし飯で,関西風にする場合は,といだ米をコンブひと切れとともに半日ほど水につけておき,コンブを引き上げてそのまま炊く。関西のすしは,元来つけじょうゆを用いずに食べるのを原則としているので,合せ酢は砂糖を多く,濃厚な味にする。
執筆者:吉野 曻雄
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