鳥取郷(読み)ととりごう

日本歴史地名大系 「鳥取郷」の解説

鳥取郷
ととりごう

和名抄」は「止々利」と訓ずる。「和泉志」は尾崎おざき下出しもいで黒田くろだしん石田いしだ波有手ぼうでなか自然田じねんだ山中やまなか桑畑くわばた貝掛かいかけまいの諸邑(現泉南郡阪南町)を郷域とするが、しも庄と称された箱作はこつくり(現同上)淡輪たんのわ深日ふけ孝子きようし谷川たながわ東畑ひがしばた・西畑・小島こじま(現泉南郡岬町)も含むとみるべきであろう。式内社としては波太はた(現阪南町)国玉くにたま(現岬町)の二社がある。

「古事記」垂仁天皇段に印色入日子が「血沼池」「狭山池」「日下之高津池」を造り、さらに「鳥取之河上宮」にあって横刀一千口を作らしめて石上いそのかみ神宮(現奈良県天理市)に納め、また河上部を定めたとあり、「日本書紀」垂仁天皇三九年一〇月条に五十瓊敷命が「菟砥川上うとのかわかみ宮」にあって剣一千口を作り、これを川上部と名付けて石上神宮に納めたとある。


鳥取郷
ととりごう

「和名抄」諸本とも訓を欠く。郷名は垂仁天皇皇子本牟智和気御子のために設けられたという鳥取部にちなむ。「和名抄」に記される鳥取郷は、因幡国のほか河内・和泉・丹後・越前・肥後にみられる。天皇に近侍する貴人の奴僕的性格の強い鳥取部民が郷内にいたか、それとも中央にいる鳥取部支配の伴造のために物資貢納する農業部民がいたかのいずれかにより郷名が生じたのであろう(新修鳥取市史)


鳥取郷
ととりごう

「和名抄」所載の郷。郷順は車持くるまもち郷の次、布留ふる郷の前で、高山寺本は「今亡」と注記する。訓は記されない。同名の郷は河内国大県おおがた郡、和泉国日根ひね郡、丹後国竹野たけの郡、因幡国邑美おうみ郡、備前国赤坂あかさか郡、肥後国合志こうし郡などにみえ、和泉国日根郡の場合は訓を「止々利」とする。


鳥取郷
ととりごう

「和名抄」にみえるが諸本ともに訓はない。和泉国日根ひね郡に同名郷があり、これには「止々利」と訓注する。郷域は大和川北岸の青谷あおたに(現柏原市)の地であろう。鳥取の地名も遺存している。「新撰姓氏録」(河内国神別)に「鳥取 同神三世孫天湯河桁命之後也」とみえる。鳥取やそれと同族の鳥取造・鳥取連(天武一二年に鳥取造に連姓を賜う)が集住していたのがこの郷名の由来であろう。


鳥取郷
ととりごう

「和名抄」諸本に訓はない。郷域については、現赤磐あかいわ赤坂町の南部にあたる明治二二年(一八八九)成立の鳥取上ととりかみ村、同郡山陽さんよう町の北部から中央部にかけての同年成立の鳥取中村・鳥取下村・西山にしやま村の地域と推定されている(「大日本地名辞書」「岡山県通史」など)。推定郷域内には、木の実などを保存するための貯蔵穴が発見された縄文晩期の南方前池みなみがたまえいけ遺跡(山陽町南方)や、赤坂町町苅田まちかんだ市街地の南部には古代条里制の遺存する地域などがある。


鳥取郷
ととりごう

「和名抄」高山寺本・刊本ともに訓を欠く。郷名は平城宮出土木簡に「丹後国竹野郡鳥取郷鳥□□」とみえ、また天平一一年(七三九)一〇月の日付のある正倉院宝物赤あしぎぬに「丹後国竹野郡鳥取郷(深カ)田里戸車部鯨調□壱□長六丈」とあって鳥取郷からが調貢されている。

鳥取郷内には、中世鳥取庄が立荘される。


鳥取郷
ととりごう

「和名抄」東急本・高山寺本ともに訓を欠く。「日本地理志料」は「止止利」と訓を付し、あるいは鳥栖とりのす(現菊池郡西合志町)を遺称地かとしている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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