鳥取庄(読み)ととりのしよう

日本歴史地名大系 「鳥取庄」の解説

鳥取庄
ととりのしよう

和名抄赤坂あかさか郡鳥取郷の郷名を継ぐか。皇室領庄園、のち禁裏御料所として再編成される。「とゝり」「とりとり」とよまれる。別納に仁保にぼ村があった。年貢米一千石(銭では一千貫文)という大庄で、天正一一年(一五八三)まで量は減少しつつも納入が続いている。寿永二年(一一八三)葛木時末が開発したと伝える、貞治三年(一三六四)の葛木氏子孫掟書(黄薇古簡集)にみえる地名によると、旭川から現熊山くまやま町西部に比定される可真かま郷西側に庄域が推定され、現御津みつ郡御津町東部、現山陽町北部、現赤坂町南部の一帯に比定できる。明治二二年(一八八九)同地域の中央部から西に鳥取上・中・下の三村が成立する。

建久二年(一一九一)の長講堂所領注文(島田文書)によれば、正月雑事用の御簾一三間・御座六枚・砂二〇両、三月の御八講用の砂二〇両、彼岸の布施として布一〇反、洛中西洞院・楊梅・油小路に面した門の番兵として二月に各々三〇ヵ日九人の兵士を、毎月一九・二〇日の両日の御菜および移花三〇枚を貢納することになっている。寛喜三年(一二三一)頃、当庄の加納をめぐって相論が起きている(九月二五日「某直状」民経記紙背文書)、寛元元年(一二四三)四月二二日、霊夢をうけた宣陽門院より当庄の年貢のうち一三果が京都東寺御影堂に寄進された(「宣陽門院令旨案」東寺文書)。建武四年(一三三七)八月、当庄などが西園寺公重に与えられ(「光厳上皇院宣」東洋文庫所蔵塚本文書)、貞和五年(一三四九)九月一五日、当庄のうち中村が新院(光明院)に譲られている(「光厳上皇所領処分状」中村直勝氏蒐収古文書)


鳥取庄
とつとりのしよう

現阪南町鳥取中とつとりなか辺りにあった庄園。延文元年(一三五六)前後と思われる醍醐寺領知行不知行目録(醍醐寺文書)の「御敵陣処々」に「和泉鳥取領主職伝法院領百石」とあり、当庄領主職一〇〇石は根来ねごろ(現和歌山県那賀郡岩出町)に与えられていたが、当時南朝方の勢力下に入っており、不知行となっていたと思われる。南朝方は、正平二四年(一三六九)八月七日の春宮大進某奉綸旨(観心寺文書)によって観心かんしん(現河内長野市)に法華堂造営料所として「鳥取庄内山中関」を、次いで建徳元年(一三七〇)九月二二日の治部卿某奉綸旨(同文書)では、法華堂造営の間「鳥取庄山中関半分」を管領するように命じ、関銭を造営料に充てている。この山中やまなか関は熊野街道沿いの関所である。また、南朝方は文中三年(一三七四)には「鳥取庄内左京亮忠明跡」を淡輪因幡権守に宛行っている(同年五月一四日「長慶天皇綸旨」淡輪文書)

将軍足利義持は意に違う者の所領を奪い、神社に寄進することが多かったが、「建内記」正長元年(一四二八)五月一四日条によると、義持の死後、その新寄進地を本人に返付するか否かについて、三宝院満済が義宜(足利義教)から諮問された際、当庄が論議の対象とされている。


鳥取庄
とつとりのしよう

古代の鳥取ととり(和名抄)の地に立荘されたと考えられる荘園で、近世の鳥取村を中心にした地域に比定される。丹後国田数帳に

<資料は省略されています>

とある。「親長卿記」文明二年(一四七〇)一二月二四日条に「御料所鳥取荘事御年貢未進、重可被仰付之由、被申武家帥広橋両人御使条々有子細」とあり、「実隆公記」永正六年(一五〇九)五月一二日条に「伯二位来、鳥取御料所事可申遣赤松雑掌書状事被談之、愚意分草遣了」と記される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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