石上神宮(読み)イソノカミジングウ

デジタル大辞泉 「石上神宮」の意味・読み・例文・類語

いそのかみ‐じんぐう【石上神宮】

天理市布留町にある神社。祭神は布都御魂大神ふつのみたまのおおかみ拝殿は国宝。石上振神宮。布留社ふるのやしろ

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精選版 日本国語大辞典 「石上神宮」の意味・読み・例文・類語

いそのかみ‐じんぐう【石上神宮】

  1. 奈良県天理市布留町にある神社。旧官幣大社。主祭神布都御魂(ふつのみたま)大神は神武天皇の東征の時、建御雷(たけみかずち)神が高天原から降したと伝えられる神剣。拝殿は入母屋造(いりもやづくり)、丹塗(にぬり)で、七支刀七枝刀(ななさやのたち))と共に国宝。布留社。

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日本歴史地名大系 「石上神宮」の解説

石上神宮
いそのかみじんぐう

[現在地名]天理市布留町

布留ふる町南東端の山際に鎮座。祭神は布都御魂ふつのみたま神・布留御魂ふるみたま神・布都斯御魂ふつしみたま神。相殿に宇摩志麻治命・五十瓊敷命・白河天皇・市川臣を配祀。旧官幣大社。石上振いそのかみふる神宮(「日本書紀」履中天皇即位前紀条)布都努斯ふつぬし神社(新撰姓氏録)岩上いわがみ明神(「旧神号額」社蔵)・布留社六社大明神(「荒蒔村年代記」荒蒔区有文書)とも記され、「延喜式」神名帳山辺やまべ郡に「石上坐布都御魂神社名神大、月次相嘗新嘗」とある。

〈大和・紀伊寺院神社大事典〉

〔創祀・沿革〕

創祀については崇神天皇の時(先代旧事本紀)とも、仁徳天皇の時(新撰姓氏録)ともいう。祭神布都御魂は神武天皇東征の際、武甕雷神が下した平国之剣で、ふつのみたまとも書き(「日本書紀」神武即位前紀戊午年六月二三日条)、国家鎮護の神として宮中に奉斎され、その後石上邑に移して伊香色雄いかがしこお命に祀らせたと伝える(先代旧事本紀)垂仁天皇三九年一〇月、五十瓊敷命をして剣一千口を作り、石上神宮に納めて神宝をつかさどらせたが、同八七年二月、五十瓊敷命は老齢のためそれを大中姫に命じ、大中姫は物部十千根大連に譲ったため、石上神宝は物部氏のおさめるところとなった(日本書紀)物部守屋蘇我馬子に討たれた時、「物部府都大神矢」と誓って弓を引きつつ死んだというように(聖徳太子伝暦)、物部氏の信仰は厚かった。

神庫には丹波国桑田くわた(現京都府亀岡市)献上の八尺瓊勾玉なども納められたが(日本書紀)、おもに兵器であったと考えられている。天武天皇三年(六七四)八月、忍壁皇子を石上神宮に遣わして神宝をみがかせ、神府に蓄えた宝物をその子孫に返させた(同書)。「日本後紀」延暦二四年(八〇五)二月一〇日条によると、当社から京都へ移し運んだ兵器を返還するにあたって造石上神宮使が一五万七千余人を計上しており、膨大な武器が貯蔵されていたことがうかがえ、また「勅曰、此神宮所以異他社者何、或臣奏云、多収兵仗故也、勅、有何因縁所収之兵器、奉答云、昔来天皇御神宮、便所宿収也」と記すように、古来、皇室から刀剣を奉納し、兵器貯蔵庫としての性格を有していたようである。仁徳天皇死後、住吉仲皇子の乱に際し、去来穂別皇子が当社に難を避け、雄略天皇三年四月、大罪を犯して殺されようとした阿閇臣国見が当社に逃隠れたことがあったが(日本書紀)、ここを本拠とした物部氏とともに、兵器庫でもある当社が背景にあったものであろう。

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改訂新版 世界大百科事典 「石上神宮」の意味・わかりやすい解説

石上神宮 (いそのかみじんぐう)

奈良県天理市に鎮座。古くは石上坐布留御魂(いそのかみにますふるのみたま)神社,また布都(ふつ)御魂神社,布瑠社などともよばれた。布都御魂大神をまつる。布都御魂大神は,またの名を甕布都(みかふつ)神,佐士布都(さじふつ)神ともいい,神武天皇が大和へ入るにあたって,熊野で難にあったとき,天照大神の命令で武甕槌(たけみかづち)神が天より下した神剣韴霊(ふつのみたま)の霊のことと伝える。神武天皇即位ののち物部(もののべ)氏の祖宇摩志麻治(うましまじ)命に命じて宮中でまつらせ,のち崇神天皇のとき,物部氏の伊香色雄(いかしこお)命に命じて現在地に移しまつらせたという。古くより物部氏が氏神として奉仕,国家非常の際には,天皇が行幸し,鎮定を祈った。物部氏は軍事をつかさどった古代の有力豪族であり,この神社の天神庫(あめのほくら)には多くの武器が格納され,神社であるとともに武器庫としての役割も持ち,804年(延暦23)その武器を山城国へ移すのに15万7000余人を要したと《日本後紀》に記している。867年(貞観9)正一位となり,延喜の制で名神大社,のち二十二社の一社とされ,明治の制で官幣大社とされた。本社にはもと本殿はなく,拝殿の奥に禁足地があり,最も神聖な霊域として畏敬されていたが,1913年禁足地後方に現本殿を建立,神剣を移した。また本社に伝来の七支刀(しちしとう)は国宝。例祭10月15日のほか,10月1日の榜示浚(ぼうじさらえ)神事,11月22日の鎮魂祭など特殊神事が多い。
執筆者: 拝殿背後の禁足地は東西44m,南北28mの広さで,中央に径6mの塚があった。1874,78,1913年に発掘され,鏡,武器,玉類,鈴などが発見されている。この禁足地を古墳と見る説もあるが,遺物のそれぞれの時期が異なるところから伝世品の埋納,数次の埋納,後世の埋納といった経緯が想定される。神社に伝承されてきた宝物,付近の出土品などを後世聖視してこの地に埋め,禁足地としたのであろう。現在,神社に伝世される七支刀,鉄盾2枚とも関連する。鉄盾は高さ143cm,鉄板を矧綴(はぎとじ)した5世紀代の優品で,他に例を見ない。朝廷の武器庫にふさわしい蔵品である。なお近接する布留遺跡では5世紀代の刀剣の木鞘や把頭が多量に発見されており,本社の伝承と関連する遺構・遺物と見られている。
執筆者: 現拝殿は,桁行き5間,梁間2間の母屋の四周に庇をめぐらした形で,周囲に高欄つきの縁をめぐらす。屋根は入母屋造,ひわだぶき,内部は母屋を組入天井,庇を化粧屋根裏とし,木部を丹塗とするなど,仏堂風である。1081年(永保1)白河天皇が鎮魂祭のため,宮中の神嘉殿を移したと伝えるが,長押(なげし)でなく貫(ぬき)で軸部を固めていることなど,様式上から鎌倉時代中期の建立と認められる。摂社出雲建雄神社拝殿は,もと内山永久寺の鎮守の拝殿であったが,1914年に現在地に移築した。桁行き5間,梁間1間で,中央1間を通路とし,その上を唐破風(からはふ)造としたひわだぶきの割拝殿で,1300年(正安2)に現在の姿に改築された。ともに国宝。
執筆者:

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「石上神宮」の意味・わかりやすい解説

石上神宮
いそのかみじんぐう

奈良県天理市布留(ふる)町布留山に鎮座。布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)を主神に、布都斯魂大神(ふつしみたまのおおかみ)、布留御魂大神(ふるのみたまのおおかみ)、五十瓊敷命(いにしきのみこと)、宇摩志麻治命(うましまじのみこと)、白河(しらかわ)天皇、市川臣命(いちかわのおみのみこと)を祀(まつ)っている。記紀によると、神武(じんむ)天皇即位元年、建国にあたって功績のあった天剣の威霊を布都御魂大神として宮中に奉祀(ほうし)したが、その後の崇神(すじん)天皇7年11月、物部(もののべ)の祖、伊香色雄命(いかがしこおのみこと)が勅により布留御魂大神を、石上布留高庭(たかにわ)の地に移し祀ったのを当宮の初めとする。以来、物部氏歴代の奉仕するところとなり、垂仁(すいにん)天皇39年に五十瓊敷命が剣1000口をつくり、神倉(ほくら)に納めた。神戸(かんべ)については、『続日本紀(しょくにほんぎ)』に神封50戸、『新抄格勅符抄』に80戸とある。867年(貞観9)に神階正一位、延喜(えんぎ)の制では名神(みょうじん)大社に列し、祈年(としごい)、月次(つきなみ)、相嘗(あいなめ)、新嘗(にいなめ)の祭にあずかった。平安末期には、鎮魂祭のために白河天皇が宮中の神嘉殿(しんかでん)を寄進した。中世期には、武士乱入により社頭の破壊や、社禄(しゃろく)の没収などにあった。また御神体の布都御魂剣(つるぎ)は、いつの世か拝殿背後に埋められ、長い間その場所は禁足地とされてきた。1874年(明治7)に禁足地は発掘され、玉類、武具、装飾具など多数の宝物類が発見された。旧官幣大社。例祭は10月15日で、白河天皇の勅使参向に起源するものという。6月30日に神剣渡御祭、10月1日に榜示浚(ぼうじさらえ)神事、10月22日に鎮魂祭、玉の緒(たまのお)祭などが行われる。

 拝殿、摂社出雲建雄(いずもたけお)神社拝殿、百済(くだら)王が奉ったと伝える七支刀(ななつさやのたち)が国宝に、楼門、禁足地出土品、鉄楯(てつじゅん)、色々威(いろいろおどし)腹巻などが国の重要文化財に指定されており、その他多くの文化財がある。

[落合偉洲]

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百科事典マイペディア 「石上神宮」の意味・わかりやすい解説

石上神宮【いそのかみじんぐう】

奈良県天理市布留(ふる)に鎮座。旧官幣大社。祭神は布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)。この剣は,神武天皇の大和平定に先だち,天照大神が天皇に授け,物部(もののべ)氏がこれをまつって氏神としたと伝える。延喜式内の名神大社。かつて本殿はなく,拝殿の奥の禁足地が神聖な霊域とされていた。例祭10月15日。ほかに玉の緒祭(節分前夜),神剣渡御式,鎮魂祭などがある。社蔵に七支刀がある。
→関連項目忍坂垂仁天皇天理[市]大和青垣国定公園

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「石上神宮」の意味・わかりやすい解説

石上神宮
いそのかみじんぐう

奈良県天理市布留にある,もと官幣大社。「記紀」の神武天皇東征神話に登場する布留御魂 (布都御魂〈ふつのみたま〉とも書く) 剣を祀る。国家鎮護神または氏神として,物部氏 (のちの石上氏) が代々祭祀にあたった。垂仁天皇のとき,剣 1000振りを奉納するなど,武器に関する伝承が多い。これは大和朝廷の軍事を担当したという伝承をもつ物部氏の氏神であったためと思われる。嘉祥3 (850) 年,正三位。貞観9 (867) 年,正一位の神階を授与され,大和随一の神社で二十二社の一つ。社宝には,日本最古の銘文をもつ国宝の七支刀 (しちしとう) などがあり,拝殿 (国宝) の後方の禁足地からは,長期にわたる祭祀遺跡が発掘された。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「石上神宮」の解説

石上神宮
いそのかみじんぐう

石上振神宮・布都努斯(ふつぬし)神社とも。「延喜式」では石上坐布都御魂(ふつのみたま)神社・石上(神)社。奈良県天理市布留町に鎮座。式内社。旧官幣大社。祭神は布都御魂神・布都斯(ふつし)御魂神・布留御魂神ほか。神武天皇が東征のとき使用した剣を崇神(すじん)天皇または仁徳天皇のときに祭ったのが創祀と伝える。現拝殿裏から勾玉(まがたま)・神剣などが出土し,古代の祭祀遺跡の存在が確認された。物部氏が祭ったことから物部氏の氏神としても信仰された。国家鎮護の神ともされ,867年(貞観9)正一位に昇り,「延喜式」では名神大社・相嘗祭社とされた。例祭は10月15日。古代の文字史料として注目される神宝の七支刀(しちしとう),鎌倉中期の作とされる拝殿はともに国宝。

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デジタル大辞泉プラス 「石上神宮」の解説

石上(いそのかみ)神宮

奈良県天理市にある神社。延喜式内社。祭神は布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)、布都斯魂大神(ふつしみたまのおおかみ)、布留御魂大神(ふるのみたまのおおかみ)、五十瓊敷命(いにしきのみこと)、宇摩志麻治命(うましまじのみこと)、白河天皇、市川臣命(いちかわのおみのみこと)。拝殿、七支刀などは国宝に指定。

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旺文社日本史事典 三訂版 「石上神宮」の解説

石上神宮
いそのかみじんぐう

奈良県天理市にある神社。物部 (もののべ) 氏(のち石上氏)の氏神
神武天皇の大和平定のおり献ぜられたという布都御魂剣 (ふつのみたまのつるぎ) を祭る。武器に関する伝承が多く,大和政権の武器庫といわれ物部氏が管理した。この社所蔵の七支刀 (しちしとう) は有名。

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世界大百科事典(旧版)内の石上神宮の言及

【七支刀】より

…奈良県天理市の石上(いそのかみ)神宮に古来より神宝として伝えられた鉄剣。全長74.9cm。…

【高倉下】より

…よって夢の教えのままに献上したのだという。この刀は〈フツノミタマ〉といい,大和の石上(いそのかみ)神宮に納められたとも語られている。石上神宮は物部(もののべ)氏の祭る神でここにはさまざまな鎮魂の神宝が蔵されていた。…

【鎮魂祭】より

…もと宮内庁で行われたが,現在は宮中三殿内の綾綺殿(りようきでん)で行う。宮中のほか,奈良県の石上(いそのかみ)神宮,新潟県の弥彦神社,島根県の物部神社などでも,鎮魂祭が行われている。【沼部 春友】。…

※「石上神宮」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」