鹿塩村(読み)かしおむら

日本歴史地名大系 「鹿塩村」の解説

鹿塩村
かしおむら

[現在地名]大鹿村鹿塩

小渋こしぶ川の支流鹿塩川と塩川がつくる渓谷沿いに位置し、小渋川との合流点落合おちあいより北をいう。大河原おおかわら村と同じく、「吾妻鏡」文治二年(一一八六)三月一二日条の信濃の国内の乃貢未済庄々注文に、「大河原鹿塩」と記されているのが地名の初出である。その後、嘉暦四年(一三二九)鎌倉幕府が諏訪社上社五月会の流鏑馬之頭を大河原・鹿塩の地頭に命じた記事が鎌倉幕府下知状案(守矢文書)にあるが、領家・地頭ともに明らかでない。

天正一九年(一五九一)の村高は三三〇石余(信州伊奈青表紙之縄帳)で近世初期正保四年(一六四七)には二九五石(「信濃国絵図高辻」上田市立博物館蔵)に減るが、その後元禄一五年(一七〇二)には三四七石余、天保五年(一八三四)には四五〇石余(信濃国郷帳)に増加した。

鹿塩村
かしおむら

[現在地名]宝塚市鹿塩一―二丁目・鹿塩・駒の町こまのちよう仁川台にがわだい仁川北にがわきた二―三丁目・仁川宮西町にがわみやにしちよう仁川団地にがわだんち仁川月見にがわつきみおか仁川旭にがわあさひおか仁川高台にがわたかだい一―二丁目・仁川高丸にがわたかまる一―三丁目・仁川にがわうぐいすだい

武庫むこ郡に所属。蔵人くらんど村の南西に位置する。慶長国絵図には村は描かれているが村名と石高欠落。元和三年(一六一七)の摂津一国御改帳に村名がみえ高二六五石余。享保二〇年(一七三五)摂河泉石高調では高二七七石余。文政一一年(一八二八)の尼崎藩領編入の際の覚(岡本家文書)では本田高二六七石余・新田高一〇石余、松茸運上銀六匁。

鹿塩村
かしおむら

[現在地名]川辺町鹿塩

飛騨川右岸、鹿塩川(雄鳥川)に沿った山間地に位置する。北は川浦かわうら(現美濃加茂市)、東は石神いしがみ村、南は中之番なかのばん村、西は伊深いぶか(現美濃加茂市)。村内は上組・下組に分れていた。近世初めは中之番村の枝村で、旗本大島領、慶長郷帳などでは中之番村に含まれていた。寛永一六年(一六三九)より幕府領正保郷帳では幕府領、田高一〇八石余・畑高一一四石余、ほかに山年貢二石。天保九年(一八三八)の村明細帳では高三七五石余、うち田高二〇四石余・畑高一七〇石余、そのほか御見取七斗余、小物成二石五斗。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報