信濃国(長野県)伊那郡を中心に,江戸時代に存在した農繁期の農業労働や家事労働を提供する小作人をいう。この小作人を持つ地主を〈おやかた〉とか〈おえい〉と呼び,〈御館〉〈御家〉の字をあてている。史料的に跡づけられる例として伊那郡虎岩村の平沢家をみると,同家は古くは土地の土豪下条氏の家臣で,武田,織田,徳川の諸氏が信濃南部を席巻したころには次々とそれらに臣従し,知行地を認められている。その知行地を耕作し,主家が出陣するさいには従軍した家来があった。1590年(天正18)徳川家康の関東移封のさい,平沢氏は随従せず,以後百姓として高請地の所持者となり,肝煎役を務めた。このころ以後旧来の家来は被官と呼ばれ,平沢氏の小作人となる。被官百姓の被官は室町・戦国期の武士の主従関係を表す被官から来たものと言ってよい。戦国期までの知行取である侍衆が,近世の検地以後百姓となった例は畿内をはじめ各地に多く,旧来の主従関係が小作関係として残った例も少なくない。近世の検地のさい,伊那郡では地主の旧知行地で歴代定まった家が耕作した土地は,分付形式で記載されるものが多い。同郡でも江戸時代を通じて被官百姓の制度の残った地域は天竜川東岸の山村に多いが,初期には城下町周辺の地にもその存在が知られている。小作人を門(かど),門屋などと呼び,労働提供の慣行のあるものを含めれば,同様の慣行の存在はさらに広く各地にみられる。旧盛岡藩の名子百姓は在郷武士である地頭の小作人であるとされるが,名子と呼ばれるものにも被官百姓と同質のものもある。
被官の提供する農業労働・家事労働は役儀・日手間などと呼ばれ,役儀には3~5日の少数のものから,年間75日に及ぶものまでの差がみられる。そのほか年頭の挨拶に,家によって定まる穀物・チョマ(苧麻)・桶などの定量を持参する例もある。なお領主資料の一つである宗門人別改帳には,地主の宗門にこめられて,家族・下人にならんで家族なみに記載され,一地主の家族数の合計が200人を超す例もみられる。このように被官百姓家の多い村では,被官百姓は門屋敷や地主の家の周辺に住むのではなく,村中に分散居住している。しかしそれらの人々は百姓身分の家とともに五人組を作るのではなく,被官五人組を作っている。また被官百姓は,旧来の家来家の子孫だけでなく,他地域から入りこむ人々や,下人が家を与えられ,耕地を貸し与えられて被官となったものもみられるようになる。それとともに江戸時代の比較的初期から,被官身分を脱して普通の百姓となるものがみられた。そのさいには身代金・土地代金を支払っている。
被官の役儀としての労働は,田の肥料となる刈敷採取の日から田植にかけての春の農繁期や,稲刈り・脱穀の秋の収穫期に多く使役され,無償労働である。田畑合わせて5~7町に及ぶ地主経営で,年間3000人労働を要するなかで,250~300人労働を被官が提供した例も知られている。その他は下人労働を主にしている。1871年(明治4)にその呼称は廃止された。
執筆者:古島 敏雄
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
被官、被管ともいう。戦国時代から江戸時代の隷属農民の一称。御家(おいえ)、御館(おやかた)とよばれる地主的農民に、身分的、経済的に隷属する農民をいい、中世的な農民経営のあり方が近世まで残存したものと考えられ、後進地域、たとえば信州(長野県)伊那(いな)地方などに広くみられた。被官は御館に小作年貢や各種労役を提供し、土地とともに売買・質入(しちいれ)の対象となった。江戸中期以後、身代金(みのしろきん)や地代金を払って御館より自立して小農民となる例もあった。
[上杉允彦]
…そのことをよく示すのが〈又被官〉の存在で,被官がさらに被官をかかえ,そうした被官の被官を又被官と呼ぶ。さらに地頭や土豪が百姓身分のものを被官として使役する被官百姓が多数存在したことも注目される。被官百姓は室町時代から戦国時代にかけて増大し,同じころ百姓を中心に形成される村落の惣結合と摩擦をおこすことになる。…
※「被官百姓」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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