大鹿村
おおじかむら
[現在地名]伊丹市大鹿一―七丁目・桜ヶ丘一―八丁目・高台一―二丁目・春日丘二―三丁目・清水一丁目・船原一丁目・千僧三―四丁目・広畑一丁目・瑞穂町一―六丁目・瑞ヶ丘一丁目・同三―五丁目・瑞原一―二丁目・同四丁目・緑ヶ丘一―二丁目・同五丁目・中野東一丁目・行基町一丁目
大志賀村とも(天正一〇年正月日「法華経巻釈」妙宣寺文書、慶長国絵図)。地元では「おじか」とよぶ。北村の西に位置し、山陽道が東西に通り、村の中ほどに一里塚がある。同街道に交差して伊丹郷町から中山寺(現宝塚市)、有馬(現神戸市北区)への中山道(有馬道・大坂道)が通る。村は東方と西方に分れていた(「増補御領地雑事記」森本家文書)。文禄三年(一五九四)片桐且元によって検地が行われ(「奥谷池論記録」坂戸家文書)、慶長国絵図では高三八六石。享保二〇年(一七三五)の摂河泉石高調は高四三八石余と新開二石余。天保郷帳は高四五〇石余。慶応元年(一八六五)の池尻村記録帳(池尻区有文書)では高五〇三石。
大鹿村
おおじかむら
[現在地名]妙高村大鹿・住吉
関川と小袴川・土路川の合流点にあり、北は大鹿新田、南東は土路村。関川はこの辺りで大きく迂回し、河中に岩石も多く、格好の渡河地点となっている。中世には斑尾塩街道、近世には北国街道の裏街道である樽本通の入口であった。現中郷村二本木の安楽寺蔵の方便法身像の永正一六年(一五一九)八月一五日銘の裏書に「勝願寺門徒 越後国頸城郡関庄大鹿村 願主 釈浄西」とあり、当地は室町時代に関庄であったとされている。しかし関庄の名は他の中世史料にまったくみえず、存在していたのか単なる地域的な私称なのか定かでない。同庄は後世の地誌では「越後名寄」には「高田 頸城郡関庄」、「越後野志」には「下野郷関荘府中八幡村」、「頸城郡誌稿」には「関ノ庄 高田城市ヨリ関川・関山辺迄ヲ云」と記されている。
大鹿村
おおしかむら
面積:二四九・四七平方キロ
下伊那郡の北東端に位置する小渋川流域の山村。北東は上伊那郡長谷村、東は静岡市、南は上村、西は豊丘村・松川町・上伊那郡中川村、北西は駒ヶ根市に接する。
東の赤石山脈から流出した小渋川は、西の伊那山脈との間の赤石構造線に沿って北の分杭峠(一四二七メートル)から南流する鹿塩川と南の地蔵峠(一三二〇メートル)から北流する青木川とを合わせて北西に流れ、やがて松川町と中川村とを分ちながら天竜川に注ぐ。
大鹿村
おおじかむら
[現在地名]御津町芳谷
旭川の左岸、鍋谷村の北に位置し、東は斗有村(現赤磐郡山陽町)、西は国ヶ原村と山境。北にそびえる滝城山(三四一メートル)山頂の滝之城は天険を利用した山城で、津高郡金川城主松田氏の家臣草賀五郎兵衛の居城であったという(備陽国誌)。一説に伊賀左衛門、あるいは平正継の居城ともいう(東備郡村志)。
寛永備前国絵図では、高五三石余。
大鹿村
おおしかむら
[現在地名]取手市新町一―五丁目など
北相馬台地の東部に位置し、南は利根川、東は取手村。建武三年(一三三六)一一月二二日の斯波家長奉書(相馬文書)に「下総国相馬郡」の「大鹿」の地名がみえ、相馬氏の所領であったことがわかる。江戸初期には取手村と一村の大鹿取手村(→取手村)。「取手市史」によれば延宝二年(一六七四)に検地が行われ、村高を折半して独立。天和二年(一六八二)から下総関宿藩領、宝永三年(一七〇六)から旗本松平乗武知行地となって明治に至る。
大鹿村
おおしかむら
[現在地名]山東町大鹿
本郷村の北、西に山地が迫る平地部に立地。北部に枝郷の中野(西中野とも)がある。オジカともよんだ。貞和四年(一三四八)四月七日の源清去状(大原観音寺文書)に「大鹿北方」とみえ、これよりさき地内の田が観音寺に寄進されていた。文明八年(一四七六)の観音寺本堂造立米銭下用帳(同文書)に「大鹿政所殿」がみえ、「佐々木南北諸士帳」には大鹿に中西刑部左衛門が居住とみえる。慶長検地では高八五七石余(「正徳三年郷村高付帳」中村文書)。寛永石高帳・正保郷帳では幕府領。元禄郷帳では甲斐甲府藩領。
大鹿村
おおじかむら
[現在地名]掛川市佐夜鹿
東海道に沿う山間の村で、南は小夜中山。「遠江国風土記伝」はオホカと訓じる。正保郷帳に村名がみえ、田方二六石余・畑方七石余、幕府領。国立史料館本元禄郷帳でも幕府領。「掛川誌稿」では旗本松平領。旧高旧領取調帳では旗本大河内領四一石余。「掛川誌稿」によると家数一三。元禄一〇年(一六九七)には日坂宿の定助郷で勤高四〇石(掛川市史)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
Sponserd by 
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
Sponserd by 
大鹿村
(長野県下伊那郡大鹿村)
「日本で最も美しい村」指定の地域遺産。
大鹿村は長野県の南部、下伊那郡の北東部に位置する。総面積は248.35k【m2】、97%は山林原野で占められる。標高670mから1170mの間の急傾斜地に集落が点在する典型的山村。300年以上前から伝わるとされる大鹿歌舞伎は、各集落の神社の前宮として舞台で演じられ、今日まで伝承されている
出典 日外アソシエーツ「事典 日本の地域遺産」事典 日本の地域遺産について 情報
Sponserd by 