黒人奴隷制度(読み)こくじんどれいせいど(英語表記)Negro Slavery

日本大百科全書(ニッポニカ)「黒人奴隷制度」の解説

黒人奴隷制度
こくじんどれいせいど
Negro Slavery

一般的には、プランテーション(商業的大規模農園)や鉱山などの労働力をアフリカ黒人奴隷に依拠して成立した前近代的な経済制度。アメリカ大陸では、16世紀から19世紀にかけて、アメリカ合衆国、カリブ海域諸国、ブラジルなどで発達したが、本項で取り扱うのは合衆国における黒人奴隷制度である。

[本田創造]

プランテーション奴隷制度

アメリカ合衆国の黒人奴隷制度は、本源的蓄積期のイギリス重商主義政策のもとで、プランテーションと不可分に結び付いた近世植民地奴隷制度として、イギリス領アメリカ植民地の南部に成立、発展し、南北戦争(1861~65)によって廃止されるまで200年以上にわたって存続した。そのプランテーションとは、北アメリカにおけるイギリスの植民活動の過程で、最初のうちは漠然と植民地=開拓地の意味に用いられていたが、やがて南部の農業生産の一つの型として発達し、さらに黒人を動産とする奴隷制度chattel slaveryと結び付いたとき、それは南部社会の構造的特質のみならず、広く思想や文化も含めて南部社会の全般的性格を規定する「特殊な制度」peculiar institutionとなった。プランテーションと奴隷制度とのこうした緊密な結び付きから、黒人奴隷制度は、アメリカ経済史上、プランテーション奴隷制度plantation slaveryともよばれている。

[本田創造]

制度の法制化と黒人奴隷の増加

イギリス領アメリカ植民地へのアフリカ人の移住は、早くも1619年までさかのぼるが、このとき、ただちに黒人奴隷制度が成立したのではない。労働力不足に悩む南部の植民者たちが最初に試みたのは、先住民(アメリカ・インディアン)に対する奴隷化であった。だが、この試みは概して成功せず、かわりに年季契約奉公人indentured servantとよばれる白人不自由労働者の使用が採用された。しかし、17世紀後半にバージニアやメリーランドでタバコ生産が急速に発展するようになると、すでにアフリカ人奴隷貿易を掌握していたイギリス、さらには北部のニュー・イングランド植民地の奴隷商人の利益と、白人年季奉公人よりいっそう安価で安定性のある労働力を恒常的に必要としていた南部のプランターの利益とが合致して、植民地における黒人の数は急増し始め、それとともに黒人奴隷制度が植民地全土にわたってしだいに法制化されていった。自由と平等を求めて世界に先駆けて闘われた18世紀後半のアメリカ独立革命は、その進歩的思想にもかかわらず、自国内の黒人奴隷制度を廃棄することができなかった。そればかりか、北部における部分的、漸次的廃止はみられたものの、新生共和国の基本理念を具現化した合衆国憲法は、この非人間的な制度を容認してしまった。ここに、植民地時代末期、タバコ生産の不振から、一時衰退の兆しさえあった黒人奴隷制度が、新たな歴史的条件のもとで、以前とは比べものにならないほど大規模に再生、発展する法的基礎が与えられた。

 その新たな歴史的条件とは、(1)イギリス産業革命の飛躍的進展による綿花の大量需要、(2)ホイットニーの綿繰機の発明、(3)従来の長繊維の海島綿にかわる短繊維の陸地綿の台頭、などである。こうして、19世紀中葉、とりわけサウス・カロライナ、ジョージア、アラバマ、ミシシッピ、ルイジアナなどの低南部諸州を基盤に広範囲にわたって大量の綿花生産が行われ、「綿花王国」=南部の支柱として黒人奴隷制度はその最盛期を迎えた。1800年には7万3000ベールだった綿花生産量は、10年には17万8000ベール、20年には33万4000ベール、30年には73万1000ベール、40年には134万6000ベール、50年には213万4000ベール、そして60年には383万7000ベールへと増大した。これと軌を一にして黒人奴隷も増加し、前述の各年度において、それぞれ、89万4000人、119万1000人、153万8000人、200万9000人、248万7000人、320万4000人、395万4000人を数えるに至った。しかし、ひとこと付け加えておくならば、当時、黒人奴隷は綿花生産だけに従事していたのではなく、タバコ、砂糖、麻、米などの商品作物の生産においても重要な労働力の担い手であった。

[本田創造]

制度の特質

このような最盛期の黒人奴隷制度の根本的特徴は、プランターとりわけ一握りの巨大プランターが、直接生産者である黒人奴隷と、基本的生産手段である土地とを、その手に集中、独占的に私的所有していたということである。したがって、この制度のもとでの生産は、黒人奴隷を徹底的に搾取することによって行われ、彼らの労働の果実である労働生産物(綿花をはじめとする商品作物)は、すべてプランターに帰属した。黒人奴隷はかろうじて生きることができる程度の生活手段しか与えられず、プランターは奴隷労働の全剰余生産物ばかりか、必要生産物のかなりの部分までその手に収めて、そのほとんどを市場で売却したが、他方、プランテーション内部の労働はなんら商品交換の経済法則によって媒介されることはなく、あからさまな経済外的強制であった。

 これまで、多くの歴史家は、このような黒人奴隷制度の過酷さゆえに、黒人奴隷はいっさいの人間的価値を剥奪(はくだつ)され、「文化的真空状態」に置かれていたと主張してきたが、最近の社会史研究のなかには、彼らが置かれていたきわめて困難な生活環境のもとでも、黒人奴隷が独自の共同体を基盤にして、「アフロ・アメリカ文化」を形成し、自らの価値体系を維持してきたことを示している。しかし、このことが黒人奴隷制度の前近代性を否定する根拠にならないことは、いうまでもない。「綿花王国」に象徴される南部の黒人奴隷制度は、たえず新しい肥沃(ひよく)な土壌を必要とし、その領土を膨張させていったが、同時に自由な労働力の創出や資本の蓄積を妨げ、社会の近代化を阻害したため、南部内部における社会、経済、政治上の諸矛盾を醸成するとともに、19世紀中葉には北部においてすでに急激な発展を遂げつつあった産業資本と鋭く対立するようになった。関税問題や西部の領土問題をはじめとする南北間の数々の軋轢(あつれき)も、こうしたことの表れであった。結局、それらが南北戦争へと収斂(しゅうれん)し、1861年に武力抗争として爆発することになる。

[本田創造]

『菊池謙一著『アメリカの黒人奴隷制度と南北戦争』(1954・未来社)』『山本幹雄著『アメリカ黒人奴隷制』(1957・創元社)』『本田創造著『アメリカ南部奴隷制社会の経済構造』(1964・岩波書店)』『R・S・フォーゲル、S・L・エンガマン著、田口芳弘・榊原胖夫・渋谷昭彦訳『苦難のとき――アメリカ・ニグロ奴隷制の経済学』(1981・創文社)』『K. M. StamppThe Peculiar Institution (1956, Alfred A. Knopf, New York)』『E. D. GenoveseThe Political Economy of Slavery (1961, Pantheon Books, New York)』『J. W. BlassingameThe Slave Community (1972, Oxford University Press, New York)』『H. G. GutmanThe Black Family in Slavery and Freedom (1976 Pantheon Books, New York)』

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