黒川町(読み)くろかわまち

日本歴史地名大系 「黒川町」の解説

黒川町
くろかわまち

[現在地名]黒川村黒川

胎内たいない川扇状地頂部の右岸段丘上にあり、東はたて村、西は東牧とうぼく村、北は近江新おうみしん村に接する。町名は臭水(石油)が湧出することに由来するといわれ、「日本書紀」天智天皇七年秋七月条に「越国、燃土と燃水とを献る」とみえる臭水の産地とする説もある。古くは里黒川さとくろかわとよばれたとも伝える。

嘉禎四年(一二三八)四月四日の津村尼譲状(三浦和田氏文書)に「奥山庄内黒河条」とみえ、姉黒川尼の死後子三郎(高井時茂)へ譲るとある。建治三年(一二七七)一一月五日の高井道円(時茂)譲状(同文書)によって、草水くそうず江端えばたとともに「くろかハ」の地は茂長に譲られ、弘安元年(一二七八)鎌倉幕府によって承認された(同年五月一八日「鎌倉将軍家(惟康親王)政所下文案」同文書)。茂長の所領は奥山おくやま庄のきた条に相当する。元亨元年(一三二一)一二月七日の関東御教書(同文書)は祖母尼覚性の死後茂長の孫和田(黒川)茂実が黒川条を沙汰することを認め、元徳元年(一三二九)八月覚性が死去するや、翌年五月茂実は黒川条を実質的に支配するに至った(同二年五月二〇日「色部長倫打渡状」同文書)。元弘三年(一三三三)八月二五日茂実は後醍醐天皇綸旨(同文書)により知行地を安堵された。その後茂実は足利方に属したらしい。一方、建武二年(一三三五)三月二九日雑訴決断所は越後国衙に対し、斎藤実利(法名円心)の申立てのとおり和田茂実が元弘三年以来非法に押領している黒川条地頭職を実利に返還させるようにと命じた(「雑訴決断所牒」斎藤文書)。この結果延元元年(一三三六)には斎藤実利の子重定が当所の地頭職を譲られている(同年四月二一日「源為経打渡状」同文書)


黒川町
くろかわまち

[現在地名]米沢市本町ほんちよう一丁目

神明片しんめいかた町の南西、三の丸外の町人町紺屋こんや町の南にある。郭内門東もんとう町の南北道は、三の丸堀の口番所(出入口)から南進し当町に至る。この南北道の両側に配置された下級家臣屋敷町。郭外の家臣屋敷町はおもに城の北西部に配置されたが、当町や南西隣の七軒しちけん町・林泉寺りんせんじ町などは城の南に散在して配置された。当町は城下の南東端部の守備が配慮されたと考えられる。享保一〇年(一七二五)の城下書上によれば町の長さ二町三一間・道幅三間余・屋敷数四五。ほかに長さ五二間・道幅一間の馬口労ばくろう町と結ぶ横町があった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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