黒津村(読み)くろづむら

日本歴史地名大系 「黒津村」の解説

黒津村
くろづむら

[現在地名]大津市田上黒津町たなかみくろづちよう

稲津いなづ村の南に位置する。瀬田せた川と大戸だいど川の合流地で、両川の舟運を利用した黒津浜が置かれ、また瀬田橋本はしもとより関津せきのつ村を経て大石おおいし・信楽方面へ抜ける関津道が通る。田上網代が設けられた供御くご(供御瀬)で知られるが、地名はこれの転訛とも、瀬田川唯一の浅瀬で秘密をもつ津の意からともいう(近江栗太郡志)。大治三年(一一二八)頃の成立という源俊頼の私家集「散木奇歌集」雑部には「つかなみの上のよるよる旅寝して黒津の里になれにけるかな」の一首がある。俊頼は「金葉集」の撰者として知られ、父経信の代より田上の地と関係が深く、俊頼は黒津にあった別業でこの歌を詠んだといわれる。文和三年(一三五四)一二月二三日、守護六角氏の奉行人(山内定詮か)が足利尊氏の勢多せた(瀬田川)渡河のため勢多に「田上関・黒津船等」をことごとく同日中に集めるように沢蔵人なる者に命じており(「六角氏奉行人連署奉書写」下郷共済会文庫所蔵文書)、当時、田上の沢という土豪が近隣を支配していたことが知られる。田上と併せ称せられることが多かったようで、応仁元年(一四六七)五月、大乱のなか京都から近江を経由して伊賀・伊勢まで逃れた足利義視の逃走路を「応仁別記」は「山田ヨリ勢田越ニ中山、田上、黒津へ御通」と記している。

黒津村
くろづむら

[現在地名]長岡市黒津町・新開しんかい町・高見たかみ町・下々条しもげじよう町・雁島がんじま町・川袋かわぶくろ町・上柳かみやなぎ

長岡町の北方一里、信濃川右岸に沿って形成された集落。東を福島江ふくじまえ分流が通る。北は天神小屋てんじんごや村・福田ふくだ新田、東は高見村、南は下条村。信濃川に黒津渡があり、対岸の川袋村に通じる。天正村名考(温古之栞)に「黒倉の津六十一軒」と伝えるのが当村という。元和四年(一六一八)の長岡藩知行目録に村名がみえ、高二六二石四斗余。

黒津村
くろづむら

[現在地名]根尾村黒津

長島ながしま村の北に位置し、大河原おおかわら越波おつぱ谷が落合う合流点付近に集落がある。越前街道と越波方面への道、茶屋ちやや峠を経て西境に出る道の分岐点でもあった。当村と越波村・大河原村を西奥山三ヵ村という。正保郷帳によれば田七斗余・畑五〇石余・紙桑木高一七石余・山年貢六石余。貞享二年(一六八五)大垣藩の内検により村高九一石余となり、別に新田高一二石余があった(大垣領村々高帳)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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