下条村(読み)げじようむら

日本歴史地名大系 「下条村」の解説

下条村
げじようむら

[現在地名]加茂市下条・やなぎ町一―二丁目・中村なかむら小橋こばし一―二丁目

下条川流域、天神林てんじんばやし村の南東方に位置し、長福寺ちようふくじ上下条かみげじよう・中村・旱田ひらけた・小橋・福島ふくじま興屋向こうやむき中興野なかごうや下興野の各集落がある。室町後期の蒲原郡段銭帳(米沢市立図書館蔵)青海おうみ庄下条代官の名がみえる。「温古之栞」によると、宝徳年間(一四四九―五二)長尾頼景の弟良景が当地に居城を構え、下条氏を称したという。福島の権現山に城跡が残る。天文五年(一五三六)四月一〇日の古川与三衛門宛重久(姓未詳)知行宛行状(古川渙一郎氏蔵)に「賀茂・下条之境目ふミ分候ニ付而、田地弐百苅出者也」とある。天正一一年(一五八三)九月二日の上杉景勝宛行状(歴代古案)に「賀茂之下条」とあり、篠岡ささおか(現北蒲原郡笹神村)の城主酒井新左衛門に当地を宛行っている。文禄四年(一五九五)検地帳(新発田市立図書館蔵)は「大郷庄(ママ)(異筆)「下」条村」と記し、田畠屋敷とも一一三町余・分米一千二三六石一斗余。


下条村
げじようむら

[現在地名]水原町下条町・岡山おかやま町・中央ちゆうおう町二丁目・若葉わかば町・安野あんの町・南安野みなみあんの町・山口やまぐち町一丁目・学校がつこう町・みどり町・下条

北は水原村、西は山口村、南は百津ももづ村。乾元二年(一三〇三)六月二九日の大見頼資所領配分目録(大見安田氏文書)白河しらかわ庄「下条山浦温川条」とあり、頼資はこれらを子息らに譲っている。観応二年(一三五一)二月一三日、足利尊氏は勲功の賞として細川頼和に「白河庄上下条佐々木近江入道跡」を与えている(「室町将軍家袖判御教書」野田文書)。応永一〇年(一四〇三)八月一日、頼和の子頼氏は遁世するため白河庄上・下条を由緒のある佐々木三郎盛綱の子孫三郎長綱に譲っている(「細川頼氏文書渡状」同文書)。天正六年(一五七八)の御館の乱には上杉景虎側についた蘆名盛氏の家臣小田切弾正忠は村上国清の家臣と申合せ、下条・水原へ侵入した(九月一四日「上杉景虎書状」長野県立図書館蔵)


下条村
げじようむら

[現在地名]婦中町下条

井田いだ川中流左岸に隣接し、村落の西側をうしくび用水が流れる。北は小泉こいずみ村、南は羽根新はねしん村。村名の由来は条里制に関連しているとの説もある(婦中町史)。「政所賦銘引付」文明一六年(一四八四)五月一三日条に「越中国婦負郡内下条地頭職半分事」とあり、在京幕府奉公衆小田図書助知憲は知行分の当地地頭職を近江国坂本さかもと(現滋賀県大津市)の商人越中屋次郎に預けたところ、年貢を滞らせているなどと訴えられている。この小田氏は各番帳に二番衆としてみえる。なお五番衆や一番衆となっている小田氏もある。


下条村
げじようむら

[現在地名]柿崎町下条

柿崎川と支流よし川との合流地にあり、行法ぎようほう角取つのどり落合おちあい下金原しもかなはらの各村にほぼ囲まれる。乾元二年(一三〇三)六月二九日の大見頼資所領配分目録(大見安田氏文書)に「佐味庄下条河井村」とみえる。応永一三年(一四〇六)四月二〇日には佐味さみ庄上条・下条などの鷲尾隆右から子隆敦への(「足利義満袖判御教書」大友文書)、また文安四年(一四四七)三月一七日には隆敦から子隆遠への譲与が安堵されている(「後花園天皇綸旨」同文書)


下条村
げじようむら

[現在地名]大門町下条

しま村の北東、和田わだ川左岸に位置し、村の中央を北野きたの用水・牧野まきの用水が、西をかも川が流れる。浅井あさい郷の一村。正保郷帳に下条村とみえ、高六四四石余、田方四二町二反余・畑方七反。寛文一〇年(一六七〇)の村御印によると草高五五八石、免四ツ五歩(三箇国高物成帳)。その後延宝六年(一六七八)の新開高三石九斗余、享保一七年(一七三二)の手上高二石七斗余が加えられ、一方、検地引高が延宝二年に九九石、元禄七年(一六九四)に一九石二斗余、同九年に一〇三石あって、寛保二年(一七四二)の草高は三七二石五斗(以上、計算が合わないが史料のママ)、ほかに享保八年の畑直高が一六石三斗余ある(「高免等書上帳」折橋家文書)


下条村
げじようむら

[現在地名]長岡市下々条しもげじよう一―四丁目・下々条町・北園きたぞの町・城岡じようおか三丁目・新開しんかい町・中瀬なかせ一―二丁目・たから一―二丁目・同四―五丁目・はら町一―二丁目・東高見ひがしたかみ一―二丁目

長岡町の北方にあたり、集落は新潟街道(現国道八号)沿いに並ぶ。南は川久保かわくぼ新田・城岡新田村、北は高見村。西方には信濃川が北流する。天正村名考(温古之栞)に「下条八十二軒」とある。元和四年(一六一八)の長岡藩知行目録に村名がみえ、高一七六石七斗余と二六石六斗余の新田一ヵ所を記す。正保国絵図では高六一八石余で、元禄郷帳でも大きな変化はないが、その後著しい新田の開発が行われ、天保郷帳では高一千三五石八斗余となる。


下条村
げじようむら

[現在地名]春日井市下条町・王子おうじ町・柏井かしわい

南は下津尾しもつお村・中切なかぎり村・松河戸まつかわど村などと接し、北の上条じようじよう村とともに条里制の遺構を残した地名。文和二年(一三五三)の尾張守護畠山国清の宛行状(日根野文書)

<資料は省略されています>

とある。年代不詳の下条村絵図(徳川林政史蔵)によれば、天正年間(一五七三―九二)篠木しのき・柏井の領主吉田英清の居城があった。

寛文一一年(一六七一)の家数八七、人数四三六(寛文覚書)


下条村
げじようむら

[現在地名]長岡市下条町

南北に走る三国街道(現国道一七号)沿いに形成された平野部の集落。上は片田かただ村、下は定明じようみよう村・豊詰とよづめ村。西の前島まえじま村・青山あおやま村などへの往来路がある。天正村名考(温古之栞)に「下条五十八軒」と伝えるのが当村。元和四年(一六一八)の長岡藩知行目録に村名がみえ、高二五一石七斗余。正保国絵図では高三〇七石余。元禄郷帳の村高は知行目録と同じ。旧高旧領取調帳では高四八二石二斗余。


下条村
しもじようむら

[現在地名]五泉市下条、新津市下条

早出はいで川左岸の自然堤防上に位置し、南東は三本木さんぼんぎ村、西は船越ふなこし村に接する。古くは小升こしよう村と称し(白川風土記)、元和五年(一六一九)の菅名下条せき普請可仕村々覚(伊藤家文書)に「こせう村」、正保国絵図には小枡村八四石余と記される。改称の時期は不明であるが、万治二年(一六五九)の伊藤家文書に下条組とあり、寛文一三年(一六七三)の村上御領分組々村数并高付大庄屋付(大滝家文書)に下条村とあることから、寛文期までには改称している。宝永七年(一七一〇)幕府領、正徳元年(一七一一)高田藩領、寛保元年(一七四一)白河藩領となり、文化年間(一八〇四―一八)の家数は三三(白川風土記)


下条村
しもじようむら

[現在地名]富士宮市下条

青木あおき村の北、馬見塚うまみづか村の西、潤井うるい川としば川に挟まれた富士山麓末端部の丘陵に立地する。永禄三年(一五六〇)四月一九日の清房判物(妙蓮寺文書)に「上野郷堀内妙蓮寺」とみえる。妙蓮みようれん寺は地内にあり、堀内ほりのうちとは鎌倉時代上野うえの郷地頭であった南条氏の館があった地とされる。寛永改高附帳に下条村とみえ、田方一一一石余・畑方三三〇石余、ほかに妙蓮寺領高二六石余がある。


下条村
げじようむら

[現在地名]越路町沢下条さわげじよう

渋海しぶみ川の左岸、対岸は朝日あさひ村、南は飯塚いいづか村。正保国絵図に三島郡「下条村」高一九五石余がみえる。近世初めは高田藩領、正保元年(一六四四)長岡藩領となり明治に至る。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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