黒田辰秋(読み)クロダ タツアキ

20世紀日本人名事典 「黒田辰秋」の解説

黒田 辰秋
クロダ タツアキ

昭和期の木工芸家,漆芸



生年
明治37(1904)年9月21日

没年
昭和57(1982)年6月4日

出生地
京都府京都市木屋町三条

主な受賞名〔年〕
日本伝統工芸展朝日新聞社賞〔昭和31年〕,紫綬褒章〔昭和46年〕

経歴
漆塗り師の家に8人兄弟の末っ子として生まれた。父の仕事を受け継ぐ一方独学木工芸・漆芸の技術を勉強、柳宗悦らの民芸運動に参加した。昭和5年以降は国画会工芸部に、30年以降は日本伝統工芸展に出品し、31年受賞。43年には皇居新宮殿の扇飾りなど各種備品を制作した。作風は木の持つ性質をできるだけ生かすもので、45年木工芸家としては初めて人間国宝に認定される。代表作に「拭漆欅透彫文飾棚」「乾漆耀貝螺鈿飾箱」など。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「黒田辰秋」の意味・わかりやすい解説

黒田辰秋
くろだたつあき
(1904―1982)

木・漆工家。京都市祇園(ぎおん)清井町に父亀吉、母まつの六男として生まれる。塗師の父のもとで木工、漆工の技術を習得、20歳のとき河井寛次郎と知り合い、柳宗悦(やなぎむねよし)のもとで民芸運動に参加するようになり、とくに李朝(りちょう)木工品や螺鈿(らでん)器に興味をもった。1930年(昭和5)国画会工芸部へ無鑑査で出品、以後たびたび出品する。54年(昭和29)日本工芸会理事に就任、第2回日本伝統工芸展(1955)以来、同展に出品する。70年4月重要無形文化財「木工芸」保持者に認定。作風は木理の美を生かした単純豪壮な器形、また絢爛(けんらん)たる螺鈿の加飾表現に特色があった。

[郷家忠臣]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「黒田辰秋」の解説

黒田辰秋 くろだ-たつあき

1904-1982 昭和時代の木工芸家。
明治37年9月21日生まれ。生家は塗師(ぬし)屋。父のもとで木工芸,漆芸の技術を修得。河井寛次郎,柳宗悦(むねよし)らの民芸運動に参加し,昭和2年上賀茂(かみかも)民芸協団を創立。43年皇居新宮殿の調度品を制作した。45年人間国宝。昭和57年6月4日死去。77歳。京都出身。

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367日誕生日大事典 「黒田辰秋」の解説

黒田 辰秋 (くろだ たつあき)

生年月日:1904年9月21日
昭和時代の木工芸家;漆芸家。人間国宝
1982年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の黒田辰秋の言及

【明治・大正時代美術】より

…帝展系工芸と民芸とは無縁だと思われがちだが,もともと両者は,明治の功利主義的精神が築いてきた近代日本文化に対する対蹠的反応だったといえる。 運動の指導者だった柳宗悦は,1926年に富本憲吉,河井寛次郎,浜田庄司らの陶芸家と連名で,〈日本民芸美術館設立趣意書〉を発表して運動を思想的に方向づけ,27年に染織の青田五良(1898‐1935),木工の黒田辰秋(たつあき)(1904‐82)らと上賀茂民芸協団を結成して,その思想を実践に移した。イギリスの工芸家W.モリスの影響を受けていた柳の思想においては,かつての日常雑器に見られた美を基準にして,今日の生活用品を生産することが本来の目的だったからである。…

※「黒田辰秋」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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