( 1 )この技法は、エジプト初期王朝以前から行なわれ、唐でも発達して、奈良時代に日本に伝わり、平安時代には、日本の技術が非常に進歩し、宋にも輸出して、日本が発祥と考えられるまでになった。
( 2 )「色葉字類抄」に「螺鈿 ラテン」とあり、「下学集」や節用集類には「螺鈿」に「アヲカイ」の訓があてられ、「日葡辞書」では「Auogai(アヲガイ)」の語のみを載せる。中世以降は、「アヲカヒ」で、その技法も表わすのが一般化していたと考えられる。
ヤコウガイやアワビなどの貝殻を板状に裁断し,研磨して各種の厚さにしたものを文様に整え,木地や漆地に装飾する技法。技法は多様で,文様に彫り込んで貝を埋めるもの,平面に貼りつけて漆地で埋め込む法,酸で腐食させて文様を作り出す法,貝の裏に金箔を貼ったり墨を塗る法,また貝を砕き細片にして漆地に蒔きつける法などがある。螺は巻貝をさし,鈿は嵌装の意。中国では陥蚌(かんぽう),坎螺(かんら),螺塡(らてん)などともいう。用いる貝はほかにオウムガイ,チョウガイ,シジミ,メキシコアワビなどがある。また原貝から切り出し研磨した貝板を100枚単位で計り,その厚さが4寸になるものを厚貝(あつがい),2分5厘になるものを薄貝(うすがい)と呼んだ。日本では厚貝を用いたものを螺鈿といい,薄貝を用いるのを近世には青貝(あおがい)と称した。
貝で器物を飾ることは古くから行われた。中国でも西周代から貝を用いた加飾があったとされるが,螺鈿が盛行し発達をみるのは唐代である。唐代にはエジプトや西アジアで発達した木画の技法が伝わり,ヤコウガイを紫檀などに嵌装する木地螺鈿が盛んに行われた。このほかべっこう(鼈甲)を用いる玳瑁地(たいまいじ)螺鈿や樹脂埋込螺鈿,黒漆地螺鈿がみられ,これらの多くは正倉院に伝えられている。中国に遺存するのは,わずかにトゥルファン出土の双六局や数例の螺鈿鏡のみである。木地螺鈿の代表的な例は〈螺鈿紫檀五弦琵琶〉で,ペルシアのリュートを祖型とする五弦琵琶唯一の遺品。撥面(ばちめん)を玳瑁地とし,ラクダに乗る楽人を螺鈿で表し,毛彫を施す。このように技法,素材,文様ともに国際性豊かで西方色が強い。黒漆地螺鈿の遺品としては〈螺鈿玉帯箱〉がある。漆地螺鈿の完形遺品として最古のもので,漆地に螺鈿を装飾するという発想は,おそらく中国に帰すべきであろう。
しかし中国ではその後,螺鈿は停滞し,10~13世紀ころにはむしろ日本産螺鈿器が珍重された。中国では明代に再び隆盛を迎える。明代螺鈿は厚貝を用いた唐代のそれに比べ,薄貝を用い,絵画的な文様が主流を占める。〈竜濤螺鈿稜花盆〉(東京国立博物館),〈楼閣人物螺鈿稜花合子〉(出光美術館)などが14世紀の代表的遺品である。このほか小単位の文様の組合せによる連続文もみられ,高麗螺鈿の影響がうかがわれる。清代になると,新たな展開として金,銀,鉛などを併用した色彩豊かな作品が作られた。
朝鮮では12世紀の高麗時代から盛んとなり,精巧な螺鈿器が作られた。その特徴として,貝を煮た後にたたいて薄く剝(は)いだ〈へぎ貝〉を打抜きし,小片の組合せ連続文で華麗な菊唐草を表すこと,文様の境界に黄銅線や縒(より)線を巡らすこと,玳瑁を併用することなどがあげられる。〈菊唐草螺鈿経箱〉(北村美術館),〈螺鈿玳瑁菊唐草文合子〉(当麻寺)などが代表的な例である。高麗では官営の工厰で螺鈿が作られ,細密で図案的な作品が多い。次の李朝ではアワビを用い,絵画的作品が多くなるが,技術的にも意匠上も稚拙で素朴なものとなる。
日本の螺鈿は奈良時代に始まる。正倉院に伝存する多くの遺品は,前述のように唐代工芸の粋を集めたものであるが,この中に檜和琴(ひのきわごん)がある。日本独自の楽器で,紫檀貼り地に花卉,竜角に菱形文,側面に雲文などを螺鈿で表す。外国産の材を用いるものの,国内で製作された可能性が強く,このころには螺鈿技法を習得していたと考えられる。9~10世紀の遺品は残されていないが,《仁和寺御室御物実録》(950)に〈黒漆地螺鈿箱〉〈紫檀地螺鈿牙象一合〉とあり,また《宋史》日本伝に,988年(永延2)奝然(ちようねん)が宋朝へ螺鈿器を送ったとある。さらに北宋ころの《泊宅編》には〈螺鈿器は倭国に出(い)ず〉とあって,螺鈿は日本に根を下ろし,中国を凌ぐようになっていたことが知られる。
11世紀になると,浄土信仰が盛んとなり,螺鈿は蒔絵と結びついて豪華な阿弥陀堂建築の荘厳に用いられる。平等院鳳凰堂の須弥壇,天蓋がその代表例であり,ことに須弥壇は剝落が著しいものの,金粉を淡く蒔いた平塵地螺鈿が用いられている。1020年(寛仁4)完成の法成寺も華麗な堂内荘厳が施されたようで,《栄華物語》にそのさまが描かれている。これらを受け継いだのが中尊寺金色堂であり,内陣斗栱(ときよう),蟇股(かえるまた),頭貫,四天柱,須弥壇の側面や高欄などが,濃厚に金粉を蒔いた沃懸地(いかけじ)に宝相華唐草文の螺鈿で飾られた。当時,螺鈿は,螺鈿太刀が蒔絵太刀より上位におかれたように,最上級の加飾法であり,奥州藤原氏の財力と,現世に極楽を求める強い熱情が知られる。
11世紀末からは蒔絵文様の一部として螺鈿が用いられ,いわゆる蒔絵螺鈿へと発達する。その最古の例は〈沢千鳥蒔絵螺鈿小唐櫃〉(金剛峯寺)で,なお螺鈿は控え目に点飾されるにとどまっている。当代蒔絵螺鈿の代表作は〈片輪車蒔絵螺鈿手箱〉(東京国立博物館)で,蒔絵による流水に,螺鈿の御所車をひたす意匠である。黒漆地螺鈿では,なお唐代螺鈿の影響が強く,宝相華唐草文やシンメトリックな蝶,鳥文に占められていた。平安後期に至って,日本的感覚が各方面に広がると,螺鈿も伝統的な蒔絵と結びつくとともに,絵画性を帯びた和風の意匠が主流となった。
一方,唐代螺鈿の伝統を汲む木地螺鈿も,優品を生んでいる。春日大社の〈宝相華鳳凰螺鈿平胡籙(ひらころく)〉〈紫檀地鸚鵡螺鈿飾太刀〉などがある。ただ紫檀材の輸入がしだいに困難となり,疑紫檀の塗法が開発されて次代へ続いた。最古の例に〈尾長鳥螺鈿飾太刀〉(厳島神社)がある。
鎌倉時代は和様螺鈿にとって輝かしい時期であった。工具の改良もあって技術は飛躍的に進み,和風文様もきわめて洗練されたものが作られる。なかでも螺鈿鞍は,11世紀末以来盛んに製作され,宋,高麗でも知られたが,〈時雨螺鈿鞍〉(永青文庫),〈桜螺鈿鞍〉(文化庁)を頂点に,極限的な技巧を示す。ことに前者は厚・薄2様の螺鈿貝を駆使して,鞍の曲面に時雨にうたれてなびく松と葛の蔓葉を表し,葦手文字を交える。一方,金地螺鈿も隆盛を迎え,〈沃懸地籬菊(まがきにきく)螺鈿硯箱〉(鶴岡八幡宮),〈沃懸地片輪車蒔絵螺鈿手箱〉(東京国立博物館),北条政子所用と伝える〈沃懸地浮線綾(ふせんりよう)螺鈿手箱〉(サントリー美術館)があげられる。〈片輪車〉は細片によって線的に表現し,〈浮線綾文〉は巧みに切り透かした貝片の組合せで円文を形成する高度な技法をみせる。
14世紀以降はそれまでの発展は停滞し,厚貝の技法はみるべきものも少ない。しかし,このころから元・明の薄貝による螺鈿器が多く輸入され,唐物(からもの)尊重の風潮ともあいまって,螺鈿に対する新たな興味を呼び起こすことになる。独特の光彩をもつ中国の貝は,おそらく〈へぎ貝〉を,打抜き法などによって巧緻な文様に構成したものであろう。日本でも〈磨り貝(すりがい)〉を用いてこれを模し,〈松巴文螺鈿鞍〉(東京国立博物館)などにその例がみられるが,へぎ貝が一様の色調を示すのに対して,斑文が残る。やがて豊臣秀吉の朝鮮派兵後には,陶磁器同様,李朝螺鈿の影響を強く受ける。李朝螺鈿はアワビの薄貝を用いて流れるように自由な文様を構成した。日本でも〈花唐草螺鈿膳,椀〉(明月院),〈花唐草螺鈿箱〉(MOA美術館)などが作られ,もっぱら薄貝が用いられるようになり,その青色の光彩から青貝の称が生まれて,螺鈿を〈アヲカイ〉と訓ずるまでになった。なお李朝螺鈿には,貝を割ったり,乳鉢でくだき,文様に再構成する〈割貝法〉があり,これもとり入れられている。また南蛮貿易の隆盛に伴って輸出用に洋風漆器が大量に作られ,一方で国内向けに異国趣味の意匠による器が作られる。本阿弥光悦やその後の琳派の人々は,それまでの伝統の上に新たな発想と技術を加え,洗練された高度な作品を残した。伝本阿弥光悦作〈樵夫蒔絵硯箱〉(MOA美術館),尾形光琳作〈八橋蒔絵螺鈿硯箱〉(東京国立博物館)などは,必要以上の細工を施さず,しかも蒔絵や鉛板など他の材と大胆に組み合わせている。その後は技術的にさらに巧緻となり,薄貝や切金をモザイク風に組み合わせた杣田(そまだ)細工,貝牙角を彫刻してリアルに表現した芝山(しばやま)細工などが18世紀に生まれた。
→漆工芸
執筆者:中里 寿克
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
漆工芸の加飾技法の一種。貝殻を荒砥(あらと)やグラインダーなどで各種の厚さに摺(す)ったものを文様に切り、木地(きじ)や漆地(うるしじ)の面に貼(は)り付けたり、はめ込んで装飾する技法。
螺鈿の名称は、天平勝宝(てんぴょうしょうほう)8年(756)の『東大寺献物(けんもつ)帳』に記載のものがもっとも古い。まだ文献にはみえないが、中国・唐の用語と思われ、後世宋(そう)代の『爾雅翼(じがよく)』に鈿螺の文字がある。類語として他の文献では坎螺(かんら)、(せんでん)、嵌(でんかん)、鈿螺(でんら)、陥蚌(かんほう)と異称し、蜔(でん)、甸(でん)、填(でん)の文字を鈿にあてている。日本では、平安時代以降に、貝摺(かいすり)、青螺(あおかい)、青貝という用例がみられ、また螺鈿、鈿螺、螺填、蜔嵌(でんかん)と書いて「アヲカヒ」と呼称している。螺はもともと栄螺(さざえ)のような渦巻形の貝殻をさしたが、鮑(あわび)貝、夜光貝、蝶(ちょう)貝、鸚鵡(おうむ)貝、蜆(しじみ)貝、メキシコ貝なども用いる。摺った貝板の厚さは100枚重ねを単位とし、2分5厘(8.25ミリメートル)のものは薄貝、これより薄いものを絹磨(ず)りという。厚貝は4寸(132ミリメートル)のもので、より厚さを要するときは丸貝を用いることもある。鈿の原意は金華(かねかざり)で、黄金の髪飾りをさし、玉(ぎょく)や貝で飾ることをも称するようになった。
[郷家忠臣]
まず貝板から文様をつくる方法は、大別して次の3種に分けられる。(1)切り抜き法 厚貝に適し、糸鋸(いとのこ)で挽(ひ)いたのち鑢(やすり)や砥石(といし)で仕上げる。(2)打ち抜き法 薄い貝板を型で打ち抜く方法で、鏨(たがね)を用いる。(3)腐食法 薬品(塩酸)を用いるもので、薄貝を貼ってから表面に文様を漆で描き、その上を塩酸のついた刷毛(はけ)でなでると、漆のない部分は腐食して消滅する。それをすぐ水洗いして漆を剥(は)ぐ方法。
次に貝板を木地に接着する方法としては、(1)木地を彫り込み、そこへ貝板をはめる嵌入(かんにゅう)法。(2)木地に貝板を貼り、周りを漆で塗り埋めたのちに研ぎ出す付着法。(3)厚く漆を塗った地に貝板を押し込む押し込み法などがある。
[郷家忠臣]
螺鈿の起源は明らかではないが、古代エジプトのハダク文化期(前3500ころ)の装身具や器物に、貝殻を細工した装飾例がみられるところから、地中海沿岸の諸国に伝わり、しだいに加飾法として進展したものと思われる。
東洋における螺鈿は、中国の殷(いん)代にすでにあったとする説と、ササン朝ペルシアをはじめとする西方の国々からシルク・ロードを経て唐に流入したとする説があり、後者が有力である。このことは、正倉院に伝わる西方系の楽器である螺鈿紫檀琵琶(したんびわ)や、螺鈿紫檀五絃(ごげん)琵琶、玳瑁(たいまい)螺鈿箜篌(くご)などから推測される。また正倉院の沈香木画箱にみられるように、紫檀材などの木地に琥珀(こはく)、玳瑁(べっこう)、水晶、珊瑚(さんご)、象牙(ぞうげ)、玉(ぎょく)などを併用している。正倉院宝物の漆地の螺鈿品は、螺鈿箱、箜篌の2点しかみられないので、螺鈿は本来、漆工よりもむしろ木工技術のもとにあったとする説もある。螺鈿はまた金工品にも施された。わが国では正倉院の平螺鈿背(へいらでんはい)円鏡をはじめ8面の遺例があり、中国には1962年に河南省洛陽(らくよう)の16工区76号唐墓から発見の花鳥人物文平螺鈿背鏡、韓国にも同種の鏡が出土するなど、国際化を証する好例である。
平安時代には、唐風の木地螺鈿から漆地螺鈿へと主流が移ってゆくが、とくに表現・技法の面で和様化を遂げるのは、藤原道長が政治を支配した11世紀初めごろで、貴族の室内調度に蒔絵(まきえ)と螺鈿の技術の併用もみられるようになる。黒漆地螺鈿の代表的遺例に洲浜鵜(すはまう)螺鈿硯箱(すずりばこ)や鳳凰(ほうおう)円文螺鈿唐櫃(からびつ)、萩(はぎ)螺鈿鞍(くら)(ともに東京国立博物館)があげられ、蒔絵との併用では片輪車(かたわぐるま)螺鈿蒔絵手箱(国宝、東京国立博物館)、沢千鳥(さわちどり)螺鈿蒔絵小唐櫃(国宝、和歌山・金剛峯寺(こんごうぶじ))がある。日本の景勝、風物に基づく意匠が繊細優美な感覚によって表されており、10世紀末ごろにはすでに中国、朝鮮でも高く評価された。988年(永延2)に奝然(ちょうねん)が弟子嘉因(かいん)に託して宋の王室への進物品に螺鈿の品々を贈ったり、1015年(長和4)に藤原道長が宋の天台山大慈寺に螺鈿蒔絵厨子(ずし)などを寄進している。また1073年(延久5)、高麗(こうらい)の王室へ鞍、鏡箱、硯箱などを王則貞らが贈っている。とくに注目すべきは、北宋の方勺(ほうしゃく)が著した『泊宅編』に「螺鈿器はもと倭(わ)国に出(い)ずる。物象百態、頗(すこぶ)る工巧を極む」とあって、螺鈿技術のおこりが日本であり、多様な意匠が精巧を極めていると評価していることである。このことは螺鈿の中国での衰微をも示している。
鎌倉時代にはますます螺鈿の技術は進み、時雨(しぐれ)螺鈿鞍(国宝、東京・永青文庫)では不整形の曲面に螺鈿だけで絵画的な文様と文字を表した巧緻(こうち)な技にまで達している。朝鮮の螺鈿が著しく発達したのも高麗時代(918~1392)以降で、官営の「中尚署」で螺鈿匠によって制作され、中国宋朝で非常に尊重されたことが文献によって知られる。1272年には「鈿函造成都監」を設け、『大蔵経』を納める箱を大量に制作した。高麗(こうらい)螺鈿は、立菊や菊唐草の文様からなり、縁には連珠文や星形などを巡らし、境界線や茎などに銀、錫(すず)、真鍮(しんちゅう)の縒(より)線を用い、貝裏に彩色したり、玳瑁を貼るなどの技法もみられ、わが国にも菊花文螺鈿経箱(東京国立博物館)や花文螺鈿玳瑁合子(奈良・當麻(たいま)寺奥院)の遺例がある。
室町時代には日本の螺鈿は低迷したが、中国明(みん)代の薄貝を用いる技術が新たに伝わる。さらに桃山時代には、李朝(りちょう)期の朝鮮から割貝法や青貝法が伝わって、織田有楽斎(おだうらくさい)の考案という明月椀(めいげつわん)や、南蛮意匠の器物に応用されている。江戸時代には鮑の厚貝を使い独得な表現を試みた尾形光琳(こうりん)や、薄貝でモザイク文様を表した杣田光正(そまだみつまさ)、彫刻した貝を嵌入する芝山仙蔵などの精巧ではでな作品が世に出た。なお沖縄にも青貝法が伝わり、精緻な杣田細工が琉球(りゅうきゅう)漆器に活用された。
[郷家忠臣]
『荒川浩和著『螺鈿』(1985・同朋舎出版)』▽『河田貞編『日本の美術211 螺鈿』(1983・至文堂)』
字通「螺」の項目を見る。
出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
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出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
夜光貝・鮑(あわび)・蝶貝などの貝殻を砥石で磨いて適当な厚さにし,これを切って装飾に用いる方法。技術的には次の三つに大別できる。(1)木地(きじ)を文様の形に彫りこみ,そこに貝片を埋める木地螺鈿。最も古い手法で,正倉院宝物にも多くの類例がある。(2)木地に貝片を貼って下地をつけ,漆で塗りこめてから研ぎ出す。平安時代以降に盛んに行われた手法で,典型作は永青文庫蔵の螺鈿時雨鞍(国宝)など。(3)木地をおおよそ文様の形に彫りこみ,そこに貝片を貼って下地をつけ,漆を塗る。中尊寺金色堂の内部装飾などが好例。室町時代に入ると,伝統的な螺鈿に,中国明の影響をうけた薄貝による螺鈿が加わった。これは青貝とよばれ,近世以降おおいに流行する。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…おもなものには青海波塗,津軽塗,竹塗,七子塗,紫檀塗,石目塗がある。 加飾法には蒔絵,沈金,螺鈿(青貝),彫漆,箔絵,錆絵(さびえ),漆絵,蒟醬(きんま),平脱(平文(ひようもん)),堆錦(ついきん),密陀絵などがある。それぞれ,時代や地域によって多くの種類が生み出された。…
…象嵌は火鉢,煙草箱,印章箱,燭台,馬具などの鉄や真鍮(しんちゆう)の台に施され,実用性を兼ね備えた美しい意匠を完成させている。漆工では螺鈿(らでん)に特徴を発揮した。高麗螺鈿のように器面全体を細かな文様で埋め尽くすものとは対照的に,李朝螺鈿は厚貝を使用し,後期の青花磁器の文様に似て,地を大きくとりそこに蓮池水禽(れんちすいきん)や葡萄といった絵画的な模様,四君子(しくんし)などの文人好みの文様,あるいは十長生などの吉祥文様をおおらかに配している。…
※「螺鈿」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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