美術評論家、宗教哲学者。民芸運動の提唱者として知られる。東京生まれ。父は海軍少将で数学者の柳楢悦(ならよし)。学習院を経て、東京帝国大学文学部心理学科を卒業(1913)。学習院高等科在学中に文芸雑誌『白樺(しらかば)』の創刊(1910)に加わり、同人となる。のち朝鮮の工芸や木食上人(もくじきしょうにん)の彫刻、ブレイクとホイットマンの詩を紹介。大正末期より民芸美論をたて、講演と調査、収集のために日本全国と海外各地を旅行した。志賀直哉(しがなおや)、武者小路実篤(むしゃのこうじさねあつ)、河井寛次郎、浜田庄司(はまだしょうじ)、バーナード・リーチらの文学者や工芸家と同志的な交流をもち、民芸運動の普及に努めた。雑誌『工芸』『民芸』を創刊し、1936年(昭和11)に東京・駒場(こまば)に日本民芸館を創設、それまで顧みる者のなかった民衆の工芸の美を解明した功績は大きい。生涯を通じて直観によって打ち立てた独自の東洋美学は、著作『雑器の美』(1926)、『日本の民芸』(1960)など数十冊に収められている。1957年(昭和32)文化功労者。
なお、夫人の柳兼子(かねこ)(旧姓中島。1892―1984)はアルト歌手。ドイツ歌曲に定評があり、1972年芸術院会員に選ばれた。
[永井信一 2016年9月16日]
『『柳宗悦全集 著作篇』全22巻(1980~1992・筑摩書房)』▽『鶴見俊輔著『柳宗悦』(1976・平凡社/平凡社ライブラリー)』▽『寿岳文章著『柳宗悦と共に』(1980・集英社)』
哲学者,民芸運動の創始者。東京に生まれた。父は海軍少将で数学者の柳楢悦(ならよし),母は勝子(柔道家嘉納治五郎の姉)。学習院高等科のころ同窓生と《白樺》を創刊。その美術面をうけもち,宗教哲学,心霊学についての論文を寄稿。《科学と人生》(1911)を東大在学中に刊行。1913年東京帝国大学文学部心理学科を卒業。翌年,声楽家中島兼子と結婚。学生時代からウィリアム・ブレークを研究し,14年《ヰリアム・ブレーク》を出版。この研究は後に寿岳文章と協力して創刊した書誌学的専門誌《ブレイクとホヰットマン》(1931-33)で続けられる。また神秘主義の研究は宗派をこえて,《宗教とその真理》(1919),《宗教的奇蹟》(1921),《宗教の理解》(1922),《神に就いて》(1923)をへて《南無阿弥陀仏》(1955)にむかい,初期のキリスト教から仏教に関心が移る。両者に通底するものを求め続けたことは後年の〈神と仏〉(1956)に明らかである。
1909年,柳は李朝の壺に心をひかれ,やがて朝鮮在住の浅川伯教(のりたか)と巧(たくみ)の兄弟と親しくなり,朝鮮を旅行し,日本の朝鮮政策を批判する文章を発表。22年には光化門取壊し反対の文章〈失はれんとする一朝鮮建築のために〉を《改造》に発表した。19年の朝鮮の独立運動弾圧,23年の関東大震災での朝鮮人虐殺をかなしみ,29年にはそれまであつめていた朝鮮美術を携えて京城景福宮緝敬堂に朝鮮民族美術館を開設した。李朝の工人のつくった陶磁器の美しさに目ざめた後,柳はひるがえって日本の日常雑器の中に,無名の工人のみごとな作品を見いだした。雑器をつくりだした人々の無心の仕事,雑器を日常生活の中に使うという〈用の美〉が,柳に信仰と結びついた生活美学への構想をいだかせた。それは千利休以来の茶道の受継ぎであり,現代の茶道の改革への提言でもあった。《茶と美》(1941),《茶の改革》(1958)へ連なる仕事の系列である。
1926年陶芸家浜田庄司,河井寛次郎とともに高野山に旅して〈日本民芸美術館〉設立の構想を得て,設立趣意書を発表。すぐれた器の蒐集,実作の調査にのりだし,31年に雑誌《工芸》を創刊して49年までに120冊を出して終わった。これらの冊子は,軍国日本の中にあって柳の守ったけじめを示している。大原孫三郎から寄付を得て,36年に日本民芸館を創立。その後,日本のさまざまな場所に民芸館ができ,民芸風は各地のみやげ物店や料理屋のスタイルに影響をおよぼした。その間,初期大津絵,木喰,円空仏,沖縄の民芸の研究への道をひらいた。敗戦後の48年に京都の相国寺でおこなった講演〈美の法門〉は,美と醜の区分をこえて世界を見わたす視野の成立を説いて,仏教の信仰に根をおろす美意識のあり方を示した。これは《妙好人因幡の源左》(1950),《仏教と悪》(1958),《心偈》(1959)に連なる仕事である。
→民芸
執筆者:鶴見 俊輔
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大正・昭和期の美術研究家・評論家,宗教哲学者 日本民芸館初代館長。 民芸運動の創始者。
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1889.3.21~1961.5.3
大正・昭和期の思想家,日本民芸運動の創始者。東京都出身。東大卒。1910年(明治43)「白樺」創刊の頃イギリス人陶芸家B.H.リーチと出会い,イギリスの詩人W.ブレークを研究。24年(大正13)朝鮮民族美術館をソウルに設立し,36年(昭和11)には日本民芸館を開設,館長となる。31年「工芸」,39年「民芸」などの月刊雑誌を創刊,民芸の美の普及に努めた。57年文化功労者,60年朝日文化賞受賞。「柳宗悦全集」全22巻。
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…山梨農林学校卒。1914年朝鮮に渡り,朝鮮総督府林業試験場で養苗実験に従事するかたわら,柳宗悦(むねよし)とともに京城(ソウル)に朝鮮民族美術館を設立した。また,朝鮮民芸を研究し《朝鮮の膳》《朝鮮陶磁名考》を書いた。…
…法然は〈一文不知〉の者をかえってたたえたが,大いに理があろう。【柳 宗悦】
[民芸運動]
日本の民芸運動は,柳宗悦(やなぎむねよし)によって〈民芸〉という言葉とともにはじめられ,彼を中心とする同志的結合による活動によって発展した。白樺派の創始者の一人であった柳宗悦は,生活と深い結びつきのある工芸の世界へと情熱を向け,民衆の日常生活のなかに厳然と生きている美の世界,すなわち民衆の工芸のうちに工芸そのものの真の姿のあることを強く提唱した。…
…他の一つは障子紙,傘紙などとして日常生活に供給されたが,生産能率を上げ,価格を安くし,さらに都会趣味に応じるため,鉄板乾燥などの改良策を行い,原料に木材パルプなどを混入し,薬品漂白などで紙を真っ白にするなどの工法が,製紙試験場等の指導で普及していった。このように手漉和紙本来の特色が失われる傾向に対し,知識人の間で批判はあったが,とくに昭和初期から民芸運動を活発に指導していた柳宗悦は強く反対した。柳は1931年に島根県松江市で開催した新作民芸品の展示会のおりに,当時,29歳の安部栄四郎(1902‐84)の漉いた厚手の雁皮紙を賞賛したのが機縁となって,安部の東京における紙の個展や雑誌《工芸》の和紙特集(1933)などによって,民芸紙の内容が整ってきた。…
…帝展系工芸と民芸とは無縁だと思われがちだが,もともと両者は,明治の功利主義的精神が築いてきた近代日本文化に対する対蹠的反応だったといえる。 運動の指導者だった柳宗悦は,1926年に富本憲吉,河井寛次郎,浜田庄司らの陶芸家と連名で,〈日本民芸美術館設立趣意書〉を発表して運動を思想的に方向づけ,27年に染織の青田五良(1898‐1935),木工の黒田辰秋(たつあき)(1904‐82)らと上賀茂民芸協団を結成して,その思想を実践に移した。イギリスの工芸家W.モリスの影響を受けていた柳の思想においては,かつての日常雑器に見られた美を基準にして,今日の生活用品を生産することが本来の目的だったからである。…
…1897年イギリスに帰り,ロンドン美術学校に学ぶ。1909年来日,東京,上野桜木町に住み,武者小路実篤,柳宗悦ら《白樺》の同人に銅版画を教えたことから彼らとの交友が始まった。12年,ある茶会で楽焼に絵付したことが契機となって富本憲吉とともに六代目尾形乾山に入門,16年,師の本窯を譲り受けて千葉県我孫子(あびこ)の柳邸内に築窯,将来陶芸家となることを志し,作陶に専念。…
※「柳宗悦」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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