小沢治三郎(読み)おざわじさぶろう

日本大百科全書(ニッポニカ) 「小沢治三郎」の意味・わかりやすい解説

小沢治三郎
おざわじさぶろう
(1886―1966)

海軍軍人宮崎県生まれ。海軍兵学校37期、海軍大学校卒業。駆逐艦「竹」艦長、連合艦隊参謀、第一、第四、第一一各駆逐隊司令、海大教官、巡洋艦摩耶(まや)」戦艦榛名(はるな)」の各艦長を歴任。連合艦隊参謀長、水雷学校長、海大校長などを経て、1941年(昭和16)10月南遣艦隊司令官となる。同年1月、太平洋戦争開戦にあたりマレー作戦の海軍指揮官を務め、イギリス戦艦プリンス・オブ・ウェールズとレパルス撃沈。1944年第一機動艦隊と第三艦隊の司令長官を兼任し、レイテ沖海戦では「囮(おとり)作戦」を敢行したが、栗田(くりた)艦隊の反転で功を奏さなかった。その後、軍令部次長、海軍総隊長官となる。第二次世界大戦後は防衛庁(現、防衛省)の戦史編纂(せんしへんさん)や郷友連盟創設に協力した。

[小田部雄次]

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20世紀日本人名事典 「小沢治三郎」の解説

小沢 治三郎
オザワ ジサブロウ

昭和期の海軍中将 海軍総司令長官;連合艦隊司令長官。



生年
明治19(1886)年10月2日

没年
昭和41(1966)年11月9日

出生地
宮崎県

学歴〔年〕
海兵(第37期)〔明治42年〕,海大卒

経歴
昭和12年連合艦隊参謀長、駆逐隊司令官を経て、日中戦争期には第1、第3航空戦隊の司令官を歴任。ついで中将に進み、太平洋戦争には、17年第3艦隊司令長官として機動部隊を指揮し、20年には海軍総司令長官・連合艦隊司令長官・海上護衛司令長官として最高責任者の地位にあった。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「小沢治三郎」の意味・わかりやすい解説

小沢治三郎
おざわじさぶろう

[生]1886.10.2. 宮崎
[没]1966.11.9. 東京
海軍軍人。日本海軍最後の連合艦隊司令長官。 1909年海軍兵学校,21年海軍大学校卒業。海軍大学校教官,連合艦隊参謀長などを歴任。 40年中将,41年海軍大学校校長。 44年第1機動艦隊の司令長官となり,同年6月のマリアナ沖海戦航空母艦 (空母) 3隻と航空機 400機余を失った。同年 10月のフィリピン海戦ではおとりとして空母部隊を率い北方から接近,アメリカの空母機動部隊を北に牽制することに成功したが,空母4隻その他水上艦3隻を失った。 45年海軍総隊司令長官兼連合艦隊司令長官。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「小沢治三郎」の解説

小沢治三郎 おざわ-じさぶろう

1886-1966 大正-昭和時代前期の軍人。
明治19年10月2日生まれ。摩耶,榛名などの艦長をへて,昭和12年連合艦隊参謀長に就任。以後,水雷学校校長,海軍大学校校長などを歴任。太平洋戦争開戦時,南遣艦隊司令長官として南方進攻作戦の指揮をとる。20年最後の連合艦隊司令長官となった。海軍中将。昭和41年11月9日死去。80歳。宮崎県出身。海軍大学校卒。
【格言など】みんな死んでいく,これでは誰が戦争のあと始末をするんだ。キミ,死んじゃいけないよ(終戦をむかえ,将兵の自決を制したことば)

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367日誕生日大事典 「小沢治三郎」の解説

小沢 治三郎 (おざわ じさぶろう)

生年月日:1886年10月2日
昭和時代の海軍軍人。中将
1966年没

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