藤波 言忠(読み)フジナミ コトタダ

20世紀日本人名事典 「藤波 言忠」の解説

藤波 言忠
フジナミ コトタダ

明治期の子爵 宮中顧問官;貴院議員。



生年
嘉永6年9月12日(1853年)

没年
大正15(1926)年5月23日

出生地
京都府

経歴
広橋胤保の子で、藤波教忠養子となる。明治天皇学友で、慶応4年(1868年)神祇権大副。明治7年宮内省出仕、12年侍従。17年子爵。馬の鑑定にすぐれ、新冠牧馬場御用掛などを経て、18年御厩制度などの調査のため欧米に渡る。21年帰国。22年〜大正5年主馬頭として、明治・大正両天皇馬術の御相手を務めた。同年貴院議員。のち宮中顧問官。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

朝日日本歴史人物事典 「藤波 言忠」の解説

藤波言忠

没年:大正15.5.23(1926)
生年:嘉永6.9.12(1853.10.14)
明治時代の華族(旧公家),子爵。明治天皇側近。京都生まれ。広橋胤保の子。藤波教忠の養子。天皇の学友として7,8歳のころより宮中に出仕した。明治7(1874)年1月宮内省9等出仕となり,天皇の講学に陪席した。12年12月侍従。馬に対しすぐれた鑑識眼があり,新冠牧馬場御用掛などを経て,18年7月には御厩制度等調査のため欧米に派遣された。22年7月より大正5(1916)年1月まで主馬頭を勤めた。また滞欧中オーストリアでドイツ人学者スタインの講義を受け,帰国後明治20年11月より天皇,皇后に憲法学を進講している。37年宮中顧問官となった。<参考文献>渡辺幾治郎『明治天皇と輔弼の人々』

(西川誠)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「藤波 言忠」の解説

藤波言忠 ふじなみ-ことただ

1853-1926 明治-大正時代の華族。
嘉永(かえい)6年9月12日生まれ。広橋胤保(たねやす)の子。藤波教忠(のりただ)の養子。宮内省にはいり,明治12年侍従となる。17年子爵。馬の鑑定にくわしく主馬頭(しゅめのかみ)として御料牧場事業の監督にあたる。のち貴族院議員,宮中顧問官。大正15年5月23日死去。74歳。京都出身。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

367日誕生日大事典 「藤波 言忠」の解説

藤波 言忠 (ふじなみ ことただ)

生年月日:1853年9月12日
明治時代の宮内官僚。子爵;貴族院議員
1926年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の藤波 言忠の言及

【藤波家】より

…大中臣清麻呂の嫡流の公家。代々神宮祭主と神祇大副を世襲した。はじめ岩出(いわで)と称したが,江戸初期の景忠のときより藤波を家号とするようになった。岩出,藤波ともに伊勢国度会(わたらい)郡の地名である。公家としての家格は半家で,江戸時代には家禄として173石を給せられた。維新の際,教忠(なりただ)は条約勅許に反対して中山忠能等の廷臣88卿と列参,上書して勅定案の改删を迫るなど国事に努めた。その子言忠は維新後,侍従に任じて明治天皇に近侍したほか,新冠(にいかつぷ)牧馬場および下総種畜場の御用掛となり,主馬頭を務め,また御厩制度の調査のため欧米に出張するなど,馬匹の飼養・改良などに大きな功績を残した。…

※「藤波 言忠」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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