ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「O.J.シンプソン事件」の意味・わかりやすい解説
O.J.シンプソン事件
オージェーシンプソンじけん
O.J.Simpson trial
1994年6月12日の夜,シンプソンの元妻がロサンゼルスにある自宅マンションの外で友人とともに刺殺された。最有力容疑者にあげられたシンプソンは車で逃走したのち逮捕されたが,この逃走劇は全米にテレビで生中継されたため,それを見た数百人に及ぶファンが道路へ繰り出し,シンプソンへの支持を表した。1994年7月22日,正式に法廷に召喚されたシンプソンは無罪を申し立て,1995年1月24日,初公判が開かれた。ロサンゼルス地区検察局は,シンプソンが離婚後も元妻に暴力をふるっていたことをあげ,これが殺人の誘因となったと強く主張した。一方,有名弁護士をそろえ「ドリーム・チーム」と評された弁護団は,証拠品の処理・管理方法が不適切であったことと,ロサンゼルス警察の職員の多くは人種差別主義であることの 2点を柱に弁論を展開した。弁護団は,シンプソンの自宅で発見された血に染まった革手袋について,サイズが小さすぎてシンプソンのものではないと指摘。さらに,警察がシンプソンを犯人に仕立て上げるために,手袋のほかにも多くの重要証拠をでっちあげたと主張した。ケーブルテレビ各局は長時間番組を組んで,この事件に関するさまざまな憶測や世論を報じた。世論はおおかた人種によって分かれ,大多数のアフリカ系アメリカ人はシンプソンの味方をする一方,多くの白人アメリカ人は有罪だと考えた。1995年10月2日,陪審団(→陪審)による評議が始まり,翌 10月3日,シンプソンに無罪評決がくだった。大部分の白人は評決に失望し,多くのアフリカ系アメリカ人は,黒人に対して差別的な法制度に対する勝利とみなし,これを支持した。
シンプソンは,刑事裁判では無罪となったが,1996年10月に始まった民事裁判では有罪となり,被害者家族へ 3350万ドルの損害賠償を支払うよう命じられた。
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