改訂新版 世界大百科事典 「ウル第3王朝」の意味・わかりやすい解説
ウル第3王朝 (ウルだいさんおうちょう)
メソポタミア南部に成立したシュメール人の統一王朝。前22世紀後半,南部バビロニアを支配していたグティ人がウルクの支配者ウトゥヘガルによって駆逐された。のち彼の息子(あるいは弟)のウルナンムがウルで独立し,ウル第3王朝が成立した。王朝ではウルナンムUr-Nammu(在位,前2112-前2095),シュルギShulgi(前2094-前2047),アマルシンAmar-Sin(前2046-前2038),シュシンShu-Sin(前2037-前2029),イビシンIbbi-Sin(前2028-前2004)の5王が即位。首都ウルをはじめ,ギルス(ラガシュ),ウンマ,ニップール,プズリシュ・ダガンなどから無数のウル第3王朝時代楔形文書が出土している。大多数は行政・経済文書であるが,そのほかに王碑文,王賛歌,神賛歌,書簡,裁判文書などがある。ウルナンムは属州画定,運河開削,ウルでの建築活動などに力を注いだ。〈ウルナンム法典〉は現存最古の楔形文字法典。その子シュルギ治世後半が王朝の最盛期であり,これ以後諸王は生存中に神格化された。シュルギは度量衡を統一,また多数の王子・王女を地方総督とし,あるいは辺境支配者に嫁がせるとともに,外征をくりかえした。各地からはおびただしい貢納品とりわけ家畜がシュメールに持参され,これらを処理するためにプズリシュ・ダガンが建設された。多数のシュルギ王賛歌も残っており,シュルギは後代に伝説化された。彼の子アマルシンは王賛歌を残しておらず,背神者とみなされていた可能性がある。その兄弟シュシン時代には再び外征がくりかえされるが,しだいにメソポタミアに侵入・移住したアムル(アモリ)人に対する長大な防壁建設を余儀なくされた。シュシンの子イビシン時代にはアムル人のほかにエラム人の活動も活発化し,王朝は衰微した。治世後半にはイシュビエラがイシンで独立活動を開始。イシュビエラによりウルは敗北し,イビシンは東方山地に連れ去られた。ウル第3王朝の滅亡とともに,シュメール人の政治的役割も終わる。
執筆者:前川 和也
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報