ボツワナ(英語表記)Botswana

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精選版 日本国語大辞典 「ボツワナ」の意味・読み・例文・類語

ボツワナ

  1. ( Botswana ) アフリカ南部の共和国。首都ハボローネ。住民の大多数はツワナ族。国土の大部分はカラハリ砂漠で、牧畜と酪農が盛ん。また、鉱産資源に富む。一八八五年イギリスの保護領となり、ベチュアナランドと呼ばれた。一九六六年独立、ボツワナに改称。

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改訂新版 世界大百科事典 「ボツワナ」の意味・わかりやすい解説

ボツワナ
Botswana

基本情報
正式名称ボツワナ共和国Republic of Botswana 
面積=58万2000km2 
人口(2010)=182万人 
首都ガボローネGaborone(日本との時差=-7時間) 
主要言語=ツワナ語,英語 
通貨=プラPula

アフリカ南部の共和国。内陸国で,大西洋およびインド洋までは最短でもともに540kmある。

国土はカラハリ砂漠にほとんど含まれ,全体的には平均標高1000mの高原盆地で,最高点は北西部のツォディロ山(1375m)である。その北半は,オコバンゴ(オカバンゴ)沼沢地やマカリカリ(マクガディクガディ)塩性低地を含む内陸流域である。南部はほとんど無河川地域となり,わずかに南東辺部に,リンポポ川支流の外洋流域がみられるにすぎない。国土の2/3は南回帰線内の熱帯に属するが,高原のため気温は比較的低く,平均気温は1月が24~27℃,7月が11~16℃である。降水は,一般に夏半年に集まるが,年300mm以下の所が広く,しかも年による変動が激しい。とくに南西部の無河川地域では乾燥が著しい。したがって,全体的には有棘(ゆうきよく)性の低木が散在する砂漠や半砂漠の状態が国土を覆い,わずかに北東部で落葉性のサバンナ林(現地名のモーパネ(マメ科)が卓越種)がめだつようになる。砂丘地も広いが,ナミビアと異なって,現在は植物でほぼ固定されたものが多い。
執筆者:

総人口の80%は国の東部に集中し,鉄道や道路沿いに町が形成されている。住民の構成のうち大部分がバントゥー系のツワナ族で,ほかにカラハリ砂漠に居住するサンブッシュマン)が5~6万人と推定されている。白人は数千人で,アジア人もわずかながら居住している。ツワナ族は8部族に分かれている。そのなかではマングワト族が最も多く,全人口のほぼ3割を占めている。次いでクウェナ族,ヌグワケツェ族,タワナ族,クガトラ族,マレテ族,ロロン族,トロクワ族の順になっている。これらの部族は17世紀中ごろにこの地に移住してきて,先住民のサンを西部の乾燥地域に追いやった。住民の大部分は牧畜とモロコシを主作物とする農業に従事するが,十分な家畜と耕地に恵まれないうえ,干ばつの被害のため困窮している。そのため,南アフリカ共和国の鉱山や農場への出稼労働者として,成年男子の約20%が毎年出かけている。サンは伝統的な生活様式を急速に失いつつあり,狩猟採集を営んでいるのは現在では数千人と推定されている。キリスト教の布教は19世紀初めから開始されたが,住民の15%がキリスト教徒で,残りはバントゥー系諸部族に固有の伝統宗教である。英語が公用語で,ツワナ語が国語に定められている。
執筆者:

もともとの原住民は,北から移住したサンであるが,17世紀半ば,バントゥー系のツワナ族の南下によって,サンはカラハリ砂漠に追いやられた。19世紀前半以降,南方のズールー族およびトランスバール共和国のボーア人の侵略を受けたため,ツワナ族のカーマ3世はイギリスに保護を求め,1885年イギリス保護領ベチュアナランドBechuanalandが成立した。95年にベチュアナランドはイギリス領ケープ植民地に編入され,1910年に南アフリカ連邦が成立すると,南ア駐在のイギリス高等弁務官の管轄下に置かれた。しかしイギリスは間接統治支配を行い,アフリカ人の伝統的首長支配をそのまま残した。20年にヨーロッパ人諮問審議会が,翌21年にはアフリカ人諮問審議会が置かれた。カーマ3世の孫で首長継承者であるセレツェ・カーマSeretse Khama(1921-80)は,イギリス留学中に白人女性と結婚したが,50年帰国しようとして人種主義を掲げる南アフリカ政府の反対にあい,追放された。56年首長位を捨て一市民として帰国を許されたカーマは,反人種主義の立場に立って62年ベチュアナランド民主党(現,ボツワナ民主党)を結成し,独立を要求した。ベチュアナランドは65年に内政の自治を許され,同時に行われた総選挙で民主党が圧勝し,カーマは首相になった。66年2月の制憲会議を経て同年9月30日,ベチュアナランドは独立を達成,ボツワナ共和国となり,カーマは大統領に就任した。

独立後,共和制の下に大統領を長とする行政府,立法府としての一院制議会,諮問機関として八つの主要部族の長からなる首長会議がある。大統領選挙と同時に議会選挙が実施されるが,独立以来民主党が議席の大部分を占めている。

 独立直後,国連,アフリカ統一機構(OAU),イギリス連邦に加盟し,反人種主義を標榜したが,南ア共和国との経済関係の重要性から両国の関係は続いた。しかし,1969年のカーマ大統領の国連総会演説以来,南部アフリカの解放闘争支援を明確化した。76年にはジンバブウェローデシア)解放闘争を支援するため,周辺のタンザニア,ザンビア,アンゴラ,モザンビークとフロント・ライン諸国を形成し,国連やOAUなどの国際会議で発言するとともに,その地理的条件を生かして,政治難民に避難場所を提供した。そのためローデシア軍の攻撃をたびたび受け,77年に国境防備のため国軍を創設したが,兵員は総勢約4500人(1989)と小規模である。

 80年7月,カーマ大統領が死去し,後任には副大統領のQ.マシレが昇格した。92年3月,副大統領と農相が土地の不正取引に関与したとして罷免された。また93年には住宅供給公社の汚職,国家開発銀行の不正事件で多くの閣僚が罷免された。この動きの中で実施された94年10月の議会選挙で,野党ボツワナ民族戦線(BNF)が初めて3分の1の議席を獲得した。BNFの支持基盤は都市部にあり,民主党長期政権の腐敗とともに経済停滞と失業率の増加に対する国民の不満の高まりを示している。

自然的条件によって国の東部を除いてほとんど農業はできず,主要産業は牧畜であった。しかし1960年代末,中東部のオラパでダイヤモンド鉱が発見され,続いて東部のセレビ・ピクウェで銅,ニッケルの富鉱が発見され,70年代初めから開発が進むにつれて鉱業立国に変わっていった。しかし鉱山開発は外国資本によって進められ,オラパでは南ア系のド・ベールス社,セレビ・ピクウェではバマングワト・コンセッション社(南ア系およびアメリカ系の親会社が株式の過半数を所有)が採掘にあたっている。工業は未発達で,南部のロバツェに食肉加工工場があるくらいのものである。したがってダイヤモンド,銅,ニッケル,肉,牛を輸出して,その獲得外貨で工業製品,食糧,生活必需品を輸入している。主要輸出入相手国は従来,隣国南ア共和国であったが,79年のECとの第2次ロメ協定調印以降,肉の輸出先としてEC諸国の比重が増した。

 港をもたない内陸国ボツワナは1910年に南アフリカ,レソト,スワジランドとのあいだで関税同盟を結成し,南ア共和国の港湾を使用している。また国内で労働力人口の就職口が限られているため,毎年約4万人以上のボツワナ人が南ア共和国の鉱山などに出稼労働者として出かけている。このような経済面での南ア共和国への依存に対し,80年フロント・ライン諸国にジンバブウェ,レソト,スワジランド,マラウィを加えた9ヵ国が南部アフリカ開発調整会議(SADCC。1992年,南部アフリカ開発共同体(SADC)に改組)を結成し,先進国の援助を受けながら,輸送・電気通信網の拡充,食糧確保,エネルギー開発,工業化など,地域レベルでの共同開発を目ざしている。この会議のなかでボツワナは家畜の口蹄疫の撲滅,干ばつ対策の計画を担当するほか,SADCCの本部が首都ガボローネに置かれた。現在,経済の多様化を主目標にする第7次国家開発計画(1991-97)を実施中であるが,開発資金の大半は外国援助に依存している。

 交通網は未発達で,鉄道はジンバブウェと南ア共和国を結ぶ路線が東部を縦貫しているのみである。したがって首都ガボローネをはじめ主要都市であるフランシスタウン,セレビ・ピクウェ,カニエ,ロバツェ,モレポローレ,マハラピエはいずれもこの鉄道沿線に集中している。90年3月のナミビアの独立とその主要港ウォルビス・ベイの南アフリカからの返還にともない,東北部鉱業都市とナミビアを結ぶトランス・カラハリ横断道路が建設中である。
執筆者:

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ボツワナ」の意味・わかりやすい解説

ボツワナ
ぼつわな
Botswana

アフリカ南部にある内陸国。正称はボツワナ共和国Republic of Botswana。旧称ベチュアナランドBechuanaland。西から北にかけてナミビア、北の一部でザンビア、東はジンバブエ、南は南アフリカ共和国と国境を接する。面積58万2000平方キロメートル(2020)、その大部分がカラハリ砂漠で人口は少なく165万1296(2000)、202万4904(2011センサス)。首都はハボローネ。

[林 晃史]

自然・地誌

国土の東部はサバナ地帯で人口の80%が住み、農業と牧畜を生業としている。リンポポ川が東側国境を流れる。中央部および南部はカラハリ砂漠からなる。サハラ砂漠と違い低木・草地があるが、雨期以外には地表水がない。ここではサン人が狩猟と植物採集によって生活している。北西部はオコバンゴ川が流れ、面積約1.8万平方キロメートルのオコバンゴ沼沢地を形成、雨期にはヌガミ湖、マカリカリ塩湖が満水となる。乾燥度の高い亜熱帯性気候に属し、夏は高温だが冬には降霜もみる。降雨は夏型(12~3月)で、年降水量は全国平均で250ミリメートル、しばしば干魃(かんばつ)にみまわれる。

[林 晃史]

歴史

ボツワナの先住民は北から移動してきたサン人であるが、17世紀中ごろバントゥー語系のツワナ人が移住し、サン人はカラハリ砂漠に移動した。1820年代南アフリカのズールー人、1840年代以降はたびたびトランスバール共和国のブーア人の侵入を受けた。そのためツワナ人のカーマ3世(1837?―1923)は、1882年イギリスに保護を求め、1885年イギリス保護領ベチュアナランドが成立した。1894年イギリス南アフリカ特許会社の支配下に置かれそうになったが、住民の嘆願により1895年ケープ植民地に編入され、1910年南アフリカ連邦が成立するとその属領となった。以後ボツワナはイギリスの南アフリカ連邦駐在高等弁務官であるマフェキングの管轄下に入った。イギリスは間接統治を行い、アフリカ人の首長制支配を温存し、近代政治制度が導入されたのは1920年のヨーロッパ人諮問審議会と翌年のアフリカ人諮問審議会が置かれてからである。1960年憲法制定により立法審議会、行政審議会、アフリカ人評議会がつくられた。バマングワト人の首長カーマはイギリス留学中に結婚した白人女性を伴い帰国したが、人種差別を主張する南アフリカ政府の反対にあい再度イギリスに追放された。1956年王位を捨てて帰国したカーマは1962年ベチュアナランド民主党(BDP、現ボツワナ民主党)を結成して独立を要求した。1965年総選挙でBDPは圧勝し、カーマは首相となり、翌1966年2月のロンドン制憲会議を経て、同年9月30日ボツワナ共和国として独立、カーマは初代大統領に就任した。

[林 晃史]

政治・外交

行政府の長である大統領(任期5年)の下に内閣を構成し、立法府として議会と、八つの主要部族の首長からなる首長会議をもつ。議会の総選挙は5年ごとに実施され、いずれもBDPが圧勝している。政党活動が自由な数少ないアフリカの国の一つで、野党にはボツワナ人民党(BPP)、ボツワナ国民戦線(BNF)、ボツワナ議会党(BCP)などがある。独立後ただちに国連、アフリカ統一機構(現アフリカ連合)、イギリス連邦に加盟した。しかし、1969年の大統領カーマの国連総会での演説以降、南部アフリカの黒人解放闘争支援の態度を明らかにし、1974年にはタンザニア、ザンビア、モザンビーク、アンゴラとともにフロントライン諸国を結成し、ジンバブエ解放闘争を支援するとともに、政治的難民に対し避難所を提供している。1980年7月カーマは病死し、かわって副大統領Q・マシレが大統領に就任したが、その政策は変わっていない。1998年マシレは引退し、副大統領モハエが後を継ぎ、1999年の選挙でモハエは再選された。軍隊は、陸軍が8500人、空軍が500人、その他1000人である。

[林 晃史]

経済・産業

従来ボツワナの主要産業は牧畜であり、主要輸出品の肉類およびウシを南アフリカ共和国に輸出し、かわりに工業製品、生活必需品の大半を同国から輸入していた。しかし1960年代末に鉱産資源が発見され、1970年代初めから開発が進んで、現在は鉱業立国となっている。中部のオラパにあるダイヤモンド鉱山は南アフリカ共和国系デビアース社が、東部のセレビ・ピクウェの銅、ニッケル鉱山は南アフリカ共和国系アングロ・アメリカン社(株式保有30%)、アメリカ系ローン・セレクション・トラスト社(同30%)、政府(同40%)の三者からなるバマングワト・コンセッション社が採掘している。牧畜も依然重要であり、1979年のEC(ヨーロッパ共同体)との第二次ロメ協定の調印によって、肉の輸出先は南アフリカ共和国からEC(のちEU)にかわった。工業は未発達で、ロバツェのと畜工場以外みるべきものはない。主要輸出品はダイヤモンド、銅、ニッケルの鉱産物のほか肉類、ウシで、工業製品、食糧、生活必需品のほとんどを輸入している。主要貿易相手国はイギリスと南アフリカ共和国であるが、1979年以降ECの比重が増した。港をもたない内陸国であるボツワナは、南アフリカ共和国、レソト、スワジランド(現、エスワティニ)との間で関税同盟を結成し、南アフリカ共和国の港湾を利用している。また毎年約4万人以上のボツワナ人が南アフリカ共和国の鉱山などに出稼ぎに出ている。このような南アフリカ共和国への経済的依存から脱却するため、1979年フロントライン諸国が集まり、翌1980年にはジンバブエ、スワジランド、マラウイ、レソトを加えた9か国が南部アフリカ調整開発会議(1992年、南部アフリカ開発共同体へ移行)を結成した。その結果、先進国の援助を受けて、輸送と電気通信網の復旧・新設のほか、食糧確保、工業開発、エネルギー確保など地域レベルでの開発が推進されており、ボツワナは家畜口蹄疫(こうていえき)の撲滅、干魃(かんばつ)対策の計画を担当している。経済開発については第七次国家開発計画(1991~1997)が実施され、ダイヤモンドへの依存を減らし、経済の多角化を目ざしている。

[林 晃史]

社会・文化

主要民族グループにはバマングワト人、バクガトラ人、バクウェナ人、バングワケツェ人、バタワナ人、バマレテ人、バトロクワ人、バロロング人のバントゥー語系8部族のほか、少数のサン人がカラハリ砂漠に住んでいる。主要都市は首都も含め大部分が東部国境沿いの鉄道沿線にある。公用語は英語とツワナ語。鉱業開発以前は後発発展途上国(LLDC)の一つであったが、現在は1人当りの国民総所得が3300ドル(2000)となり、最貧国から脱した。しかし国内産業の未発達のため雇用人口は少なく、労働人口の48.5%は農業(牧畜)に従事し、南アフリカ共和国の鉱山への出稼ぎ労働者も多い。独立後教育が重視され、1986年から無料の教育制度(10年)が実施され、就学率は83%(1990)に達している。また学生数4466人(1993)の国立ボツワナ大学がある。医療施設は遅れており、病院、ベッド数ともに不足し、医師も外国人に依存している。舗装道路キロ数は約4200キロメートル(1995)で、車台数も10万台強(1994)にすぎない。新聞は政府系1紙、民間紙5紙が発行されている。

[林 晃史]


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百科事典マイペディア 「ボツワナ」の意味・わかりやすい解説

ボツワナ

◎正式名称−ボツワナ共和国Republic of Botswana。◎面積−58万1730km2。◎人口−202万人(2011)。◎首都−ハボローネGaborone(23万人,2011)。◎住民−バントゥー系ツワナ人約95%,ほかにサン(ブッシュマン)など。◎宗教−土着宗教,キリスト教約30%など。◎言語−公用語は英語であるが,ツワナ語(国語)が広く用いられる。◎通貨−プラPula。◎元首−大統領,カーマSeretse Khama Ian Khama(2008年4月就任,2014年10月3選,任期5年)。◎憲法−1966年9月発効。◎国会−一院制(定員61,任期5年)。最近の選挙は2014年10月。◎GDP−130億ドル(2008)。◎1人当りGNP−5900ドル(2006)。◎農林・漁業就業者比率−45%(1997)。◎平均寿命−男62.1歳,女66.8歳(2013)。◎乳児死亡率−36‰(2010)。◎識字率−83%(2008)。    *    *アフリカ南部の共和国。内陸国で,南ア共和国,ナミビア,ジンバブエに囲まれる。東部は高原地帯,西部はカラハリ砂漠の一部で平均標高約1000m。北部にオコバンゴ川が流れ,オコバンゴ沼沢地,マカリカリ低地があり,南部国境にはリンポポ川が流れる。中央やや南寄りを南回帰線が通り,半乾燥気候。牛・羊・ヤギ牧畜が主で,トウモロコシ,モロコシ類,ラッカセイの産もある。石綿,マンガン,銅,ニッケルの鉱産があるが,工業は未発達。1970年代に入って世界最大規模のダイヤモンドの新鉱山が相ついで発見され,総輸出額の半分以上を占めるようになった。 先住民はサン(ブッシュマン)であるが,17世紀ごろ,ツワナ人がこの地に定住した。19世紀以降ヨーロッパ人の探検が始まった。1835年南のトランスバール共和国からオランダ系のボーア人が侵入してきたため,ツワナ人の王はイギリスに保護を求め,1885年イギリス領ベチュアナランドとなった。第2次大戦後独立運動が強まり,1965年の憲法制定を経て,1966年に独立した。HIVの感染率(15−49歳)が世界最悪の37.3%(2003年)に達し,深刻な社会問題となっている。2008年3月のモハエ大統領の引退にともない,カーマが大統領に就任。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ボツワナ」の意味・わかりやすい解説

ボツワナ
Botswana

正式名称 ボツワナ共和国 Republic of Botswana。
面積 58万1730km2
人口 241万1000(2021推計)。
首都 ガボローネ

アフリカ大陸南部の内陸国。北,西はナミビア,南は南アフリカ共和国,東はジンバブエと国境を接する。平均標高 1000mの高地に位置し,中部から南西部にかけてはカラハリ砂漠,北部にはオカバンゴ川の広大な内陸デルタ (→オカバンゴ湿地 ) が広がる。気温は夏 (10月~3月) は 38℃,冬は0℃以下を記録することがあり,年降水量は北部で 630mm,南部で 120mm以下。北境のチョーベ川に沿って森林があるだけで,ほかはカラハリ砂漠も含めて大半がアカシアを含む草原サバナである。各種の野生動物が生息し,鳥類の種類は特に豊富。古くはサン族 (いわゆるブッシュマン) の居住地で,1895年にイギリス保護領となりベチュアナランドと呼ばれたが,1966年独立,イギリス連邦に加盟した。現在はツワナ族が主体で,町を形成し,遠隔の農地や放牧地に作業に出る。宗教は古来の信仰と混交したキリスト教。公用語は英語とツワナ語。ウシを主とする牧畜と農業が主産業で,南アフリカ共和国への出稼ぎ者も多い。 1969年にダイヤモンド (おもに工業用) の開発が始まったほか,銅,ニッケルの豊富な鉱脈が発見され,採掘に着手した。しかし商業の4分の3は少数の白人が握り,国家財政は外国の援助に大きく依存している。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ボツワナ」の解説

ボツワナ
Botswana

「ツワナ人の国」という意味の南部アフリカ内陸の国。1885年にイギリスの保護領ベチュアナランドとなる。1962年ベチュアナランド民主党が結成され,独立を要求,66年9月に共和国として独立した。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

世界大百科事典(旧版)内のボツワナの言及

【ツワナ族】より

…アフリカ南部のボツワナ共和国,ナミビア,南アフリカ共和国にまたがり居住するバントゥー系の部族。ナミビア,南ア共和国にはツワナ族のバントゥースタン(ホームランド。…

※「ボツワナ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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