父は藤原信隆,母は藤原休子。名は殖子。建礼門院に仕えて兵衛督局といい,のち高倉天皇の典侍となってその寵を得,後高倉院,後鳥羽天皇を生んだ。1183年(寿永2)後鳥羽が即位すると,その母として90年(建久1)従三位,准三宮となり,院号を与えられて七条院と称した。1205年(元久2)出家し,真如智という。
後鳥羽との関係は親密で,後鳥羽はその最も愛する水無瀬殿をはじめ仁和寺殿,法華堂,山城上桂荘・河島荘ほか2荘,河内田原荘ほか2荘,摂津小松荘ほか3荘,伊勢野俣道荘ほか2荘,美濃弾正荘・鵜飼荘ほか1荘,越前織田荘ほか3荘,近江大国荘ほか1荘,和泉永吉荘,丹波田能荘,大和檜牧荘ほか2荘,遠江気賀荘,淡路菅原荘,周防束荷荘,肥後神倉荘ほか1荘,肥前植木荘等を七条院領としている。他の女院領と比べ最も遅れて成立したこの荘園群には,東国の荘園はほとんど見られない。女院の弟坊門信清は後鳥羽の信任厚く,七条院は宣陽門院,八条院と並んで権勢を競い,1206年(建永1)筑前の安楽院に三重塔を建て,14年(建保2)その居所に歓喜寿院を建立,若狭国太良荘の年貢の一部をその修二月雑事にあて,21年(承久3)承久の乱直前にこの荘を正式に同院領とした。しかし乱後は所領を一時幕府に没収されるなど勢威は衰えた。26年(嘉禄2)病にかかり,卿二位藤原兼子の勧めにしたがって所領の処分のことを定め,死の直前の28年女院領を兼子の姉で後鳥羽の後宮となった修明門院重子に,歓喜寿院を後鳥羽の子,信清の孫仁和寺御室道助に譲った。修明門院はこれを順徳天皇の子,女院の孫四辻親王善統に譲るが,善統はそのうち21ヵ所を80年(弘安3),残る17ヵ所も89年(正応2)に後宇多上皇に渡す。1308年(延慶1)これを後宇多から譲られた尊治親王(後醍醐天皇)はこの17ヵ所を再び善統に返し,21ヵ所をその手中に保持している。
執筆者:網野 善彦
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(秋山喜代子)
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