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守貞親王 モリサダシンノウ

デジタル大辞泉の解説

もりさだ‐しんのう〔‐シンワウ〕【守貞親王】

[1179~1223]鎌倉時代皇子高倉天皇の子、安徳天皇の異母弟。平家に育てられたが、平家滅亡後は出家し、持明院宮と称した。承久の乱の後、子の茂仁(ゆたひと)が後堀河天皇として即位したため、自らは天皇として即位しなかったが、太上法皇として院政を行った。

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大辞林 第三版の解説

もりさだしんのう【守貞親王】

1179~1223) 高倉天皇の第二皇子。1221年、子の茂仁親王(後堀河天皇)が即位すると、皇位につくことなく太上法皇(後高倉院)となり院政を行なった。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

守貞親王
もりさだしんのう
(1179―1223)

鎌倉時代中頃の親王で、のちの後高倉上皇(ごたかくらじょうこう)。高倉天皇の第2皇子で母は藤原隆信(ふじわらのたかのぶ)の女(むすめ)の七条院殖子。1179(治承3)2月28日に藤原兼盛(かねもり)の宅で生まれる。平氏に擁立された安徳天皇(あんとくてんのう)の異母弟にあたる。平氏一門の平知盛(とももり)に養育され、1183年(寿永2)に平氏に伴われて都落ちした。平氏が滅亡すると1189年(文治5)に帰京して親王宣下を受け守貞と称する。その後1212年(建暦2)に出家。行助(ぎょうじょ)という法名を名乗る。1221年(承久3)に起きた承久の乱で朝廷軍が鎌倉幕府軍に敗れ、後鳥羽上皇をはじめ3人の上皇が配流されて上皇が不在となると、院政を常とする当時の風潮から上皇が必要となった。そのため、幕府の後押しを受けた後堀河天皇(ごほりかわてんのう)の父である行助が上皇となる。天皇として即位したことのない親王が上皇となるのはきわめて異例のことであった。法皇として2年にわたる院政をおこなったのち、1223年(貞応2)に持明院殿で没し、後高倉の諡(おくりな)を贈られた。[秋山哲雄]

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世界大百科事典内の守貞親王の言及

【後高倉院】より

…高倉天皇の第2皇子。後鳥羽天皇の同母(七条院)兄。名は守貞。生後平知盛に養育され,平氏の西走に従ったが,やがて帰洛。1189年(文治5)親王宣下。1212年(建暦2)出家,法名を行助,世に持明院宮と称したが,21年承久の乱に勝利した幕府の意向により,子茂仁が即位(後堀河天皇),みずからは太上法皇として,皇位を経ぬまま異例の院政を開始した。京都北白河に葬り,後高倉院と諡号(しごう)。【杉橋 隆夫】…

※「守貞親王」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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