地名はある特定の土地につけられた固有の名である。人間が地球上で社会的に生活し,生産し,交流するうえで,ある特定の地域と他の特定の地域を区別して指示することはどうしても必要である。狩猟・採集の原始時代においても,シカのとれる山,サケのいる川を共同生活者に伝えるためには,その場所を指示する特定の名が必要であった。すなわち地名は,(1)ある特定の地域が,(2)人間に必要な固有の内容をもっていることによって命名された。したがって,人間の営みが自然とのかかわり,人間相互のかかわりを広げるにつれて,地名はより豊富となり,またより弁別化する必要からいっそう固有名詞化し,そしてより共有されるようになった。たとえば江戸時代に,江戸や越後の人にとってはともに〈大川〉と呼ばれていた川が隅田川,信濃川と命名され,また日本中の人が知る地名となっていったのである。
《古事記》《日本書紀》や各風土記などが,すでに地名の存在を重要視し,数多くの地名説話を記載している。風土記のごときは,編纂要項に〈山川原野〉の名義について明記することを規定し,国,郡,郷名にいたるまで説話の羅列に終始した。その地名説話は,本来あった地名に付会されたと思われるものがほとんどであるが,当時の人々の心情を反映している。平安時代には,源順の《和名抄》が全国の国,郡,郷名を網羅し,地名に訓注を付している点において,その資料的価値を軽視できない。江戸時代には国学の発達とほぼ軌を一にして,地名研究は顕著な進歩をみせた。契沖,賀茂真淵,新井白石らも《和名抄》の地名に関心を示し,特に本居宣長の《地名字音転用例》(1800),内山真竜の《国号考》(1796),《地名考》(1803),伴信友の《倭名類聚鈔郷名集覧》(1811稿)などが注目される。地方的には津田正生の《尾張地名考》(1816),吉沢好謙の《信濃地名考》(1770)などがみられ,また数多くの地誌類が出た。明治以降では,富本時次郎の《帝国地名大辞典》(1903),吉田東伍の《大日本地名辞書》(1907),邨岡良弼の《日本地理志料》(1912)などが,画期的業績として今なお評価される。一方,永田方正,知里真志保,金田一京助,山田秀三らによるアイヌ語地名の研究も貴重な足跡を残した。なお1881年,政府は府県に令し,〈濫りに土地の字(あざな)を変更することを勿らしむ,字は佳より伝来して失はず,多く,土地争訟の審判・歴史の考証,地誌の編纂等に要用ある〉とし,全国小字の収集調査を実施した。当時の膨大な報告書は1923年の関東大震災で類焼したが,現在も約20の府県では復本を保管している。明治政府の地名調査に対する事績はまことにみるべきものがあったといえる。
1936年,柳田国男は《地名の研究》によって,地理・民俗学的立場から比較研究の方法を試みた。同研究法を踏襲した中野文彦は42年,日本地名学研究所(京都,のち奈良)を創設した。同研究所は全国大字,奈良県小字を収集・調査・分類して,《日本古代地名総索引》,《大和地名大辞典》,《日本地名学(科学・地図編)》(鏡味完二),《日本地名学研究》(中島利一郎),学術研究誌《地名学研究》や,《日本地名伝承論》などを世に問うた。81年川崎市に開設された日本地名研究所は柳田学の継承・展開をめざし,学際的な視点から科学・体系的地名研究を対象としている。出版関係では《日本歴史地名大系》(平凡社)など,全国的に研究者を結集した膨大な研究書の編集・刊行が行われている。
地名学はドイツ語ではToponomastikまたはOrtsnamenkunde,フランス語ではtoponymie,英語ではtoponymyとかtoponomyというが,地名の原則的な意義や正書法などの研究を推進し,19世紀末からヨーロッパ諸国に発達した。歴史補助学として古文書学,言語学と同等に進歩し,著しい成果をあげている。韓国では国立地理院が地誌編纂,市街路名制定などの各委員会を組織し,新地名制定には民族伝統文化の継承を旨としている。たとえば《韓国古代国名地名研究》(1983,李炳銑)などが公刊され,地名研究は言語・民俗学の立場から着実な発達をみせている。日本においても76年の第4回地方史研究全国大会(松本市)において,〈地名を中心とした地方史研究〉の必要性について検討,〈国立地名研究所〉の設立具申運動が提起されるなど,地名学の成立がとみに強調されるようになった。
地名研究の方法も,一方では検出遺物(遺跡)の編年(縄文時代,弥生時代など)を尊重する考古学に接近し,地名発生時期(古代・中世・近世地名など)を重視する傾向が強くなってきた。加えて,発音の転訛,用字の改変や分布状態など,伝承過程の法則性を追究し,古代以来の言語,地理,歴史の解明を試みる,独自の科学(地名学,風土学)として認識されるにいたった。地名研究にはさまざまなアプローチの仕方があるが,以下にいくつかの留意点,参考例を述べる。
地名を考えるとき,その呼称内容から分類してみることも便利である。相互に内容の重なりはあるが,大きく分けて自然地名と人文地名に分けられよう。
自然地名とは,地形・地質など自然の形状や動植物の生息・分布などにかかわる地名である。鉢伏山,二子山,弓ヶ浜,川崎,鷹巣山,葦原などである。当然異なった土地に同名の地名も多く,山のあるところを意味するヤマトが奈良県(大和国)内だけでも小字地名に約30を数えることができる。現在はさまざまな漢字をあてられているアイヌ地名のほとんどは自然地名であり,アイヌの生活が自然と深くかかわっていたことを物語る。大阪の梅田は低湿地の埋田であり,江戸の吉原はヨシが生えていて葭原と呼ばれていた土地に好字をあてられた。自然災害の起こりやすい場所には災害地名ともいうべきものがある。石川県白山山麓のノマ地名は春先に雪崩が起こりやすい土地につけられている。地すべりの起きやすいクズレ,ホキ,ホケ,川流れの起こりやすいタキ,クエ,ワダなどの地名は各地に分布する。こうした災害地名に限らず,自然地名は小地名になるほど方言の呼称が多いので,地形やその地方の方言などとのかかわりを考えないで,短絡的にその意味をとらえることは危険である。他方,自然地名は,とりわけ地理学,言語学,民俗学などにとって貴重な資料となっている。
人文地名は,人間の多岐多様な活動に直接かかわって命名された地名である。たとえば開拓地名,産業地名,職業地名,田制・条里地名,市場地名,交通地名,姓氏地名,建造物地名,説話・文芸地名,民俗・信仰地名等々,分け方によってさまざまに分類できる。開拓地名には墾田,新開,新田など時代的な変化もあるが,開拓者や移住者の名や先住地名をつけたものもある。地名の時代的変化についていえば,荘園における名(みよう)では末時名,貞行名など名主的な名に対して久富名,稲吉名などの美称をもつ名は概して新しいといわれる。山形県庄内地方では近世に開発された水田の呼称である京田,興屋(興野),新田に時代差と規模,地形上の位置の相違がみられる。有明海に面する佐賀県の干拓地である籠(こもり),搦(からみ),開(ひらき)が海岸線に沿っておおむね等高線のように並び,近世の干拓時期の差を教えてくれる。交通地名の駅,宿,追分,沓掛,関などは,埋もれていた古道の姿を浮かび上がらせるための資料にもなる。近世城下町の足軽町,弓町,紺屋町などの職業地名は城下の都市計画を伝え,丹生(にゆう)(水銀),タタラ(鉄)などの鉱山地名,土師(はじ)や須恵などの陶業地名,鋳物師(いもじ),ロクロ(木地師)などの職業地名はその分布や活動領域を告げている。記紀・風土記に記される説話地名や,古代から近世まで詠みつがれた2000といわれる歌枕は,日本人の土地に対する心情を今日に伝えるもである。
考古学の遺跡地名表,言語学の方言分布図のように,地名の科学的研究の基礎資料として地名分布図は重要な意義をもっている。個別地名の発生理由を論証することも必要であろうが,地名の分類・分布の諸現象から,地名発生の時期・伝播などを推考し,偏狭な解釈に陥ることなく,日本文化の動向(移行)を明らかにすることができる。人名の命名傾向に時代性があるように,地名の命名にも時代性が認められる。たとえば先にあげたような開拓(集落)地名の分布を比較検討すれば,古代,中・近世の開発状況を具体的に知ることができ,分布図によって古代から現代へ,上下自在の立体的考証を可能とするのではなかろうか。
和(ヤマト),飛鳥(アスカ),春日(カスガ),長谷(ハセ),平(ナラ)などの義訓地名は,奈良県に限って所在するのではなく,全国的に分布する形状地名である。奈良県の場合,たまたま古代宮都の所在地として著名となっただけである。同県内にはヤマト関係の小字が30例以上,アスカが約10例もある。低湿地をあらわすアクツ(圷)という地名が全国的に分布し,大和川流域ではアキツ(秋津),アト(吾斗),アンド(安堵)に変転(佳字化)しているが,こうした地名の存在によって古代地理を具体的に探ることができる。同県内にはトチノキは今はほとんどみられないが,《太平記》に吉野で大塔宮がトチの実を食べた記述があり,トチ関係の地名が250例以上もあるとすれば,古代・中世の植生の復元も可能であろう。植物だけではなく服部,錦部,忌部,鏡作,石作,刑部,春日部など部民制にもとづく地名の分布によって,古代豪族の職種,勢力圏などを推察することもできる。大将軍,葛神,八王子などの民俗地名の分布によって,信仰形態を地域的に把握することも容易である。多数の地名を対象とする地名分布図は,目でみる〈地名索引〉ということができるであろう。
次に時代性の比較的明確なものとして,古代の人名にかかわる地名の例にふれてみよう。その一つは避諱(ひき)地名ともいうべきものである。《続日本紀》延暦4年(785)5月条に〈臣子の礼は必ず君の諱(いみな)を避く〉とあり,《続日本後紀》天長10年(833)7月の詔に〈天下諸国の人民の姓名及び郡郷山川等の号(な),諱に触るるもの有らば皆改易せしむ〉とみえ,諸国の地名は改変せざるを得なかった。《和名抄》に載る摂津国真上(まかみ),駿河国真壁や,下総国山家,信濃国山家(やまんべ)などは,いずれもかつては白髪(しらが)部,山部であった。これが光仁天皇の諱が白壁,桓武天皇の諱が山部であったので,真髪,山家などに改字したのである。すなわち山部(山守部の2字化)は応神天皇5年諸国に令して定めたといわれ,元明天皇の710年(和銅3)1月にも〈守山戸(やまもりべ)〉をして諸山の伐採を禁じている。奈良県橿原(かしはら)市耳成(みみなし)山麓の山之坊(旧大字)は宝亀8年(777)の《東寺文書》には山部里とある。奈良県河合町馬見山地域の大字山坊は《和名抄》の山守郷であった。
また古代の名代・子代(なしろこしろ)の制は天皇,皇后,皇子らの名を後代に伝承せんとしたものという(《古事記伝》)。《古事記》によれば仁徳天皇のとき皇后磐之媛の名代として皇后の出身地葛城(かつらぎ)の名を冠して葛城部を設け,允恭天皇の皇太子で大和の軽(かる)の地名を付した木梨軽皇子(きなしかるのみこ)には軽部が各地に設けられた。これは地名が人名にかかわり,さらにそれが部民制により地名として各地に分布した例であり,誉津(ほむつ),壬生(みぶ),八田,伊波礼,忍坂,藤原,穴穂,長谷,春日なども部による同様の例である。人為的地名ではあるが,この両者はやはり根強い地名の伝承性を証明する代表的な古代地名であろう。
地名は先述のようにきわめて価値のある資料であるが,これを考える場合,(1)表記された漢字にこだわらないこと,(2)地名は変化している場合があり,地名の時代性を考えることがとくに必要である。この点について,古代地名を主要例としつつ,以下に記すこととする。
現在の地名は漢字2字で記されることが多いが,すでに古代からこの傾向は見られる。和歌山県橋本市の隅田(すだ)八幡人物画像鏡(5世紀)に記す〈意柴沙加(おしさか)〉(現,奈良県桜井市忍坂)の地名は,万葉仮名で記されたものである。これが《古事記》には〈意佐加〉とあり,《日本書紀》では〈忍坂〉の2文字を用いている。また伊予道後温湯碑文(596)には〈葛城〉の人名(旧地名)があり,すでに6世紀には意義に対応する2字表記を理想(瑞祥思想)としたことがわかる。713年5月,元明天皇は〈畿内七道諸国の郡郷は好字を用いよ〉と詔し,《延喜式》民部式には〈凡そ諸国の郷里の名は二字とし,必ず嘉名を取れ〉とあり,官命によって地名は中国的な嘉名・好字・2字に選定することになった(額田部を額部,春日部を春部)。また飛鳥をアスカ,春日をカスガとする義訓地名や,磐余(いわれ),磐村を石寸,杖部を丈部とする省画地名などもみられた。また日下部を部と表記し,《古事記》序文は日下をクサカとよむ理由の不明であったことを述べている。古代地名の用字については未解決の分野が少なくない。
最も注意すべきことは誤写地名の問題である。例えばナラ関係の地名は奈良県内に約60例あり,《古事記》《万葉集》などには乃楽,那羅,楢,名良,平城,寧楽など十数種の用字をみるが,《和名抄》(刊本)に〈猶〉とあるのは楢の誤字であろう。この〈ナホ〉は奈保,那富,奈富,直(《続日本紀》《東大寺要録》など)と表記する。また椎山(ならやま)(《続日本紀》)は推山(《公卿補任》),稚山(《比古婆衣》)から雍良(よら)山と化し,近世の地誌類には欲良(よら),推㟴(おしのおず),養老山と書くなど,有名なナラの地名にして,これほど意外な変転をみている。さらに《和名抄》紀伊国指理(いぶり)の郷名は〈理〉〈里〉とも書き,鎌倉時代の高野山文書には〈揖理〉〈飯雨里〉〈伊豊里〉とみえ,江戸時代には〈飯降〉(現,和歌山県かつらぎ町)に転じたように,字形類似による誤字・改字地名は少なくない。
嘉名・好字地名の例は中世にもある。興田(おきた),豊田を嘉名と考え,奈良県でいえば天理市豊田(旧,北川村),御所(ごせ)市豊田(旧,吐田)も中世の改字地名である。豊,田は字形類似する興,国に誤写され,さらに興は奥,典などに誤写を重ねた例もある。大和高田市奥田は中世には興田荘で,豊国荘と隣接する。田原本町興田荘(小字は澳田),南方の南興田荘には豊前(豊田(ぶでん))の荘名が発生した。御所市奉膳(豊前)東北方に典田荘(典膳,伝膳,天田,天前とも)があり,中世地名も嘉名・佳字化する傾向をみせた。平城宮出土木簡には,美作(みまさか)国豊田郷に対し豊田と豊国の両記載があり,安芸国豊田郡も古くは沙田郡で,磐田,沙田の地名は豊田に佳字化したものである。これらは単なる一例にすぎない。1983年命名の奈良県明日香村キトラ(亀虎)古墳も,実際は大字阿部山小字上山(うやま)に所在した。キトラは隣接小字北浦(きたうら)の現地発音で,亀・虎壁画の出現を期待し,付会して〈亀虎〉としたもので,地名の嘉名・好字・2字化は今もなお生きている。現代地名の発音や用字から短絡的に,文字の意味によって歴史を論ずることは,危険というより誤りである。
地名が出土資料と同等の史料的性格をもつことは容易に理解される。たとえば橿原市常盤町の坪井遺跡は宝亀8年(777)の大和国佐位荘券には〈十市郡路東廿三条二,耳成里 卅五画工(えだくみ)田一町〉とあるが,付近に〈枝組(えだくみ)〉,〈妻田組〉(爪工(つまでくみ)),〈土田組〉(土工(つちたくみ))など古代職業集団の小字が残っている。さらに1983年,同遺跡から水鳥,貫頭衣人物,大型舟をへら描きした線刻土器や木製短甲などが検出され,付近に形象埴輪の窯跡が分布し,健土安(たけはにやす)神社が鎮座しているのである。また同市忌部付近(天太玉神社鎮座地)の小字石作(曾我)からは管玉,勾玉,水晶などの玉類約30万個が出土し,同市上品寺小字玉作の地名が注目された。さらに奈良盆地中央部,田原本町付近の小字と延久2年(1070)の興福寺雑役免坪付帳の条里地名と比較すると,現小字の大倉田が大蔵庄田,田福が伝法院,院田が春日大夫御位田,センヤクが施薬院,木寺が紀寺,松笠(馬司(まつかさ))が右馬寮田,ト代田が東大寺田となり,豊富な文献史料と地名との対比研究によって,地名年代の確認が比較的容易となる。かつて柳田国男は〈将来地名研究の新機運が,特に大和の地に興らんことを期し又念じて居る〉として,〈地名が千年以上の治乱盛衰を貫いて,切れまも無く活きて働き続けて居た実例を,大和のやうに顕著に又数多く持って居る地方は,内外を通じて実は稀なのである〉〈大和の実験は恐らくは我々の好参考であらう〉(《和州地名談》)と指摘した。ちなみに全国面積の約100分の1相当の奈良県には約12万の公称地名(小字)があり,盆地部では1km2に約80の小字が分布する。地名は単に考古学のみに限らず,隣接諸科学に対しても有力な適用性をもち,堅固な資料となっているのである。
1962年〈住居表示に関する法律〉が公布され,全国的に地名が改変される結果を招いた。この地名改変に対して少なからず抵抗運動が起きている。たとえば奈良県斑鳩(いかるが)町大字法隆寺の一部が竜田北1丁目と告示されたことから地域住民により訴訟が起こされた。いわゆる〈地名享有権〉を主張するなど,全国各地に〈地名裁判〉がおこり,〈地名を守る会〉の結成をみた。67年,住居表示に関する法律に一部を改正する法律が公布され,できるだけ従来の地名を尊重し,地域の歴史,伝統文化を継承することが考えられるようになった。さらに83年自治省(行政局)は都道府県に対し,住居表示の実施に伴う町区域および町名の取扱いについて〈(1)住民の意志を尊重する,(2)町区域,町名はそれ自体,地域の歴史,文化を反映したものなので,それを無視した町名変更は避ける〉という指導通達を出した。しかし,この〈新住居表示〉は歴史的地名に準拠することを無視し,簡略化を必要以上に重視するという異常な結果をみた。しかも第2次大戦後の町村合併や宅地開発による地名の改変もまた徹底した。こうした行政の遂行は,反対に地名存在の重要性を喚起し,文化財としての地名の調査・研究の推進をみたことも事実である。
執筆者:池田 末則
中国の地名は,秦・漢から20世紀にいたる中央集権皇帝支配を濃厚に反映して,権力支配の影響を直接受ける州県,都市城郭内や人為的な郷里制(きようりせい)と関係する場所の名称と,民間レベルの日常的呼称とに大別される。前者では,儒教の古典にもとづく,積善,安仁,崇儀,徳化などをはじめ,吉祥・嘉瑞に関係したものが多く,また宋以後の科挙制,官僚制の体系的完成に伴い,科挙の優等合格者,宰相・忠臣などの生家,住居と関連した地名が増加する。伝統的な府州県名は秦・漢から明・清までほとんど変わらないが,その場所の歴史,文化的意味を含ませた別称を雅名(がめい)として使うことが普通に行われた。蘇州府を姑蘇(こそ),呉県を平江,江寧府(南京)を金陵,上元県を建業(けんぎよう)などと呼ぶのがそれであり,詩文や書画の題跋(だいばつ),文人の出身地の記述にはこうした雅名の方が広く使われた。一方,後者にあっては,日本と同様に,山川,地形などの自然地名,それを利用した歴史段階に応じた利用地名が圧倒的に多い。自然地名は,地域によって著しい差異があるが,浙江省などでは,井,泉,浦,山,嶴()(おう),潭(たん),浜といった文字が末尾にくる地名がひろく見られる。また利用地名としては趙家,王家,李家など,家族名を冠した,某某家荘,某某家店が全国的に最も普遍的で,橋,路,(は),堰,埭(たい),廟などが末尾にくる地名も多い。最近でも文化大革命などの政治的変動によって,都市内部や行政区の地名は変化しやすいが,農村などでは現実にはほとんど変わらない。
執筆者:梅原 郁
ヨーロッパでの地名の科学的研究は19世紀末より盛んとなり,イギリスでの地名協会の設立(1923)とその州別地名辞典の刊行,イギリスのイコールEilert Ekwall(1877-1964),ドイツのフェルステマンErnst Wilhelm Förstemann(1822-1906),フランスのロンニョンAuguste Honoré Longnon(1844-1911)らによる各国地名語源辞典の編纂などが相ついだ。これらの研究の基本方法は,できうる限り地名の初出記録までさかのぼり,また自然,歴史,伝承などと地名の命名原理とを一致させることであり,言語学的方法による語源研究とその歴史学,地理学,民族学をはじめとする隣接諸科学との結合が積極的に試みられてきた。ここではイギリスを中心に,地名のいくつかの類型と歴史とのかかわりについて紹介する。
地名は通常,主要要素(属名)と規定要素(種差)とから構成される。西洋では主要要素の分析によって,地名の語源や変遷をたどることができるが,規定要素の用法によってもいくつかの類型が考えられている。一般的なのは場所の属性を示す描写地名で,北海,ロッキー山脈(岩の多い山脈),オックスフォード(牛の徒渉点)などがこれに該当する。また人物,宗教に関連した記念地名も多く,かつてのコンスタンティノポリス(コンスタンティヌス帝の都,現,イスタンブール)やサンフランシスコ(聖フランチェスコ)がその好例である。このほか個人,集団の所有観念と結びついた所有地名,〈あらしの岬〉を喜望峰と改名したような婉曲地名,河川の本来の名称はグランタGranta川であるのに,市名のケンブリッジCambridgeから逆成されたカムCam川を例とする民間語源地名などの類型をあげることができる。
民族移動が活発であったヨーロッパでは,文献史料を欠く場合,地名研究によって各民族の定住地域や定住時期,社会組織などを解明することが可能である。このような民族移動にともなう地名の歴史的層序は,島嶼(とうしよ)国で数度の移動の波が及んだイギリスで特に顕著に読みとれる。
イギリスに明瞭な最古の地名を残したのはケルト人であり,多くの地域にまたがるゆえに単一の定住者の従属物でない河川名(例,エーボン川),長く定住者をひきつけなかった丘陵名(例,モルバーン丘陵)に古いケルト地名が残存している。ケルト人のイギリスを征服したローマ人の場合は,その支配の性格から都市名にいくつかの痕跡を残し,ラテン語のcastra(陣営),colonia(植民市)に由来するチェスターChester,リンカンLincolnなどが誕生した。イギリスに最も広範な地名上の影響を及ぼしたのは,5世紀から侵入,定住を開始したアングロ・サクソン人であり,イースト・アングリア,ウェセックスのような地方名から村落名,自然地名にまで及んでいる。村落名に関しては,いくつかの特有な語尾(主要要素)を利用して定住の時期や分布が推定できる。イングランド南東部に多い-ing地名(〈人々〉の意。例,レディングReading)は人名,部族名の規定要素と結合しており,さらに非キリスト教墓地の分布としばしば一致することから,定住の初期に形成されたと考えられる。また〈囲い地〉を意味する-ham地名(例,ノッティンガムNottingham)がイングランド東部で定住前期に,〈村〉を意味する-ton地名(例,サウサンプトンSouthampton)が西部で定住後期に,それぞれ出現することが証明されているが,詳細については論議が残る。
9世紀から活発にイングランドへ侵入したデーン人,ノルウェー人も特有のスカンジナビア地名を刻印することになった。-by地名(〈村〉の意。例,グリムズビーGrimsby)や-thorpe地名(〈子村〉〈枝村〉の意。例,スカンソープScunthorpe)がイングランド北東部のヨークシャー,リンカンシャーに多数分布し,また移牧を示唆する-erg,-saetr地名がノルウェー人の侵入したイングランド北西部に散見される。これらの地名は一般に条件の悪い土地に残っており,先住者のアングロ・サクソン人との平和的共存を物語っている。これに対して1066年のノルマン・コンクエストはイギリスの地名に強い影響を与えなかった。少数の命名(例,リッチモンドRichmond)を除いて,既存地名の発音,綴りをノルマン・フレンチ化した程度である。
イギリスでみられるこのような地名の歴史的層序は,フランスでも存在し,ケルト(パリなど),ギリシア(ニースなど),ローマ(エクスなど),ゲルマン(ブルゴーニュなど)にそれぞれ起源を有する各種地名が残っている。またドイツではアウクスブルク,ケルンなどの都市名にローマの影響が及んでいる。アメリカ合衆国ではさまざまな地名が移民の定住地域に応じて共時的に分布しているのが特色で,全国的なインディアン地名,英語地名のほかに,南西部のスペイン語地名(ロサンゼルスなど),中央部のフランス語地名(セント・ルイスなど),東部のオランダ語地名(ハーレムなど)があげられる。
地名は一度命名されると固定性が強く,変化することはまれであるが,占拠者の交代によって音韻や綴りの変化を受けることがある。イギリスのケンブリッジは中世初期にはグランタカスターGrantacaestirと呼ばれていたが,のちに侵入したデーン人のなまりによって語頭のGrがCに転訛していったものである。このような変化以外に,政治・思想上の変革によって地名が改変されることも多い。オランダの植民地であったニュー・アムステルダムがイギリス領となってニューヨークになったり,ロシアの旧都サンクト・ペテルブルグがそのドイツ風地名からスラブ風のペトログラードに,次いで十月革命後はレニングラードに,さらに1991年に旧名のサンクト・ペテルブルグに改称されたような事例が典型的である。ソ連邦崩壊前後にロシアや中央アジア諸国では旧称に復した都市名や街路名が少なくない。また,現代では旧植民地時代の地名を改変する動きがアジア・アフリカ諸国でみられ,ベルギー領コンゴの主都であったレオポルドビルがザイール共和国(1997年コンゴ民主共和国と改称)のキンシャサになったのはその一例である。
執筆者:長谷川 孝治
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
地名は土地に名づけられた名称であるが、広義には地理的なすべての存在に対する固有名詞の総体をさすから、河川、海域などの名も含まれる。国連地名会議では、総体をgeographical name、居住地名をplace name、自然地名をtoponymという区別を定めている。水域の名称には「水名hydronym」という語を使うこともある。地名は人名のように、それぞれの土地に冠せられた名称で、居住地域の範囲を示す。地名は山川草木など自然的環境を表現する自然地名と、その場所の歴史や開拓者名を残す人文・歴史地名とに大別される。うち行政地名とは何々市、何々村の名称のことである。
[藤岡謙二郎・鏡味明克]
自然地名とは地名のなかで、山河や気候、生物その他の自然的環境を地名としたものである。平安時代の『和名抄(わみょうしょう)』には山や谷を表す嶽、丘、峯、嶋、石清水(いわしみず)などの自然に関する文字が出ているが、それ以前の奈良時代の「風土記(ふどき)」にも、すでにこれらの文字を冠した地名が出ている。たとえば『播磨国(はりまのくに)風土記』では日岡(ひおか)、手苅丘(てがりおか)、草上(くさかみ)、長畝川(ながうねがわ)、大野(おおの)、堀(とほり)、高瀬(たかせ)、鷁住山(さぎすみやま)、塩阜(しおおか)、高嶋(たかしま)、萩原(はぎわら)、御井(みい)、清水(しみず)、无水川(みなしがわ)、鹿庭山(かにわやま)などがあげられ、萩原については揖保(いぼ)郡の条で「萩多く栄えき。故(かれ)、萩原といふ」、无水川については「川の水絶えて流れず。故、无水川と號(なづ)く」と説明している。自然地名のうちには、東西南北などの方位や太陽の位置を示す東村、西村、西田、北山、日向(ひなた)、日出(ひじ)、日野のほか、気象現象の雷(いかずち)、氷(ひょう)ノ山、また雲、火山、温泉に関しては相接した火山を双子(ふたご)(両子)山、火口から噴火する焼火(たくひ)山(島根県隠岐島前(おきどうぜん))などがある。そのほか生物や鉱物地名では真鶴(まなづる)岬(神奈川県)、鷲羽(わしゅう)山(岡山県)などがあり、山口県光(ひかり)市の室積(むろづみ)半島先端部に形成された陸繋砂嘴(りくけいさし)には象の鼻に似た象鼻(ぞうび)ヶ岬がある。千葉県房総半島の小湊(こみなと)湾は鯛(たい)の産地であるため鯛ノ浦の名がつけられている。同様に中国山地はじめ砂鉄に関係のある鉄穴(かんな)や金山(かなやま)の地名は全国各地に分布する。そのほか錫(すず)ヶ岳、硫黄(いおう)山(島)の地名も多い。ただし、これらの地名のうち、当て字や同音異義の地名には注意が必要である。たとえば、鷹(たか)島のなかには高島を当て字にしたものがあるし、医王山(いおうぜん)と書く「いおう山」は薬師如来(やくしにょらい)による仏教地名である。また北海道ではアイヌ語源の地名も多く、アイヌ語で川はペツというが、北海道の登別(のぼりべつ)はヌプルペツ(色の濃い川)で、その旧称幌別(ほろべつ)はポロペツ(大きい川)という意味である。そのほか島のつく地名も多いが、海岸ではなく内陸の場合では、たとえば富山県の礪波(となみ)平野にみるように緩扇状地上の旧河川の自然堤防、すなわち島のようになった微高地を意味する場合もある。
これを外国についていっても、フランクフルトのフルトfurtは川にちなむ地名、ハイデルベルクやニュルンベルクなどのベルクbergは山の関係地名である。そのほかケープは岬関係の地名で、アフリカ南端の喜望峰Cape of Good Hopeにちなむ都市ケープ・タウンがある。またファースfirthすなわち峡湾や氷河作用によるフィヨルドfjordが地名となっているものは北欧やイギリスに多い。さらに日本の日向地名はドイツではSonnen Seite(日の当たる側)の名でよばれる。中国でも四川(しせん/スーチョワン)、湖南、湖北、河南などの各省名は黄河や長江(ちょうこう/チャンチヤン)に関連する自然的行政名であり、広州(こうしゅう/コワンチョウ)市の州は珠江デルタを想起する。そのほかアメリカ合衆国のソルト・レーク・シティSalt Lake Cityは文字どおり鹹(かん)(塩)湖畔に位置する市町である。
[藤岡謙二郎・鏡味明克]
自然地名以外の地名。このなかには行政地名も含まれる。すなわち戦後誕生した団地における希望ヶ丘、富士見台、平和通り、ハイランド(横須賀市)などである。一方、歴史地名はその数がもっとも多く、とりわけ日本の地名は古代・中世起源のものがもっとも多い。九ノ坪や三条などの条里条坊地名はいまも全国の農村地域に多く残っている。また市場や市(いち)地名も多い。御坊(ごぼう)という地名(和歌山県ほか)もまた中世末の真宗寺院を中心とした寺内町(じないまち)地名である。ほかにも国府や府中、惣社(そうじゃ)、郡(こおり)、国分、国分寺(こくぶんじ)市などの行政地名はその起源を律令(りつりょう)時代に有している。また御園(みその)や荘(しょう)地名も全国にその分布が多く、中世起源の地名である。一方、山下(さんげ)や根古屋(ねごや)、政所(まんどころ)は中世末、初期の城下町地名である。これに対して近世地名は城下町や宿場町、新田開発地域に多い。大手町、伝馬(てんま)町、殿(との)町、城地、丸ノ内、二ノ丸町、両替町、銀座、材木町、米屋町、魚屋町、呉服町、八百屋(やおや)町、金物町などは近世の城下町地名であり、沖縄県では豊見城(とみぐすく)など城のことを「グスク」とよんでいる。そのほか馬場町や旅籠(はたご)町は旧宿場町に多い地名である。一般に城下町と宿場町を兼ねた町では、商業地名が多い。また鉱山町では銀山町、銅座町などの地名も残る。一方、臨海や内陸盆地の新開地では新開とか開(ひらき)、新地、出島、新畑などの地名が多く、大阪では町人請負新田が多く、加賀屋新田や鴻池(こうのいけ)新田などの屋号を冠した地名が残る。佐賀平野では搦(からみ)、籠(こもり)(ともに干拓地に付される)など、また山口県の周防灘(すおうなだ)地域では開作地名が多い。搦は竹・木などの柵(しがらみ)により満潮時の泥土をため、耕地化する干拓法である。籠は河川や沼などの改修による新開地である。そのほか山形県では新田を興屋(こうや)とよんでいる。ほかにも出村(でむら)とは新しい子村のことであり、九十九里(くじゅうくり)浜の砂丘地帯では岡集落や納屋(なや)集落を物語る地名がある。納屋集落は、もと漁具を入れる納屋のあった場所に岡の住民が移住したものである。そのほか行政地名には『和名抄』の郡や郷地名がいまもなお残存する府県が多く、たとえば近江(おうみ)国(滋賀県)では、滋賀、栗本(くりもと)、甲賀、野洲(やす)、蒲生(がもう)、神崎(かんざき)、愛智(えち)、犬上(いぬかみ)、坂田、浅井、伊香(いか)、高島の12郡があったが、1990年代なかばから2000年代なかばにかけて行われた平成の大合併までは、そのいずれもが郡名として残っていた(ただし栗本は栗太、愛智は愛知、浅井は東浅井(ひがしあざい)郡となっていた)。そのほか郷名が現存するものはきわめて多い。ところが明治になると、従来の国名や藩名にかわって新しい府県名が誕生するのである。近畿地方や関東地方、京都府などの行政名のほか、市名にも新しいものが誕生した。京都府下の場合、ことに城陽市、長岡京市などの新市は戦後の行政地名であり、山梨県の南アルプス市、福島県のいわき市、茨城県のつくば市、ひたちなか市、東京のあきる野市など平仮名や片仮名の行政名も増えてきた。外国の場合もローマンロードといった道路名は歴史の古さを物語るし、ニューカッスルなどの城地名も多い。ドイツでは、ハンブルクやアウクスブルクなどブルクburg地名が城下町名である。
[藤岡謙二郎・鏡味明克]
地名と人名はどちらが古いかが問題となるが、人名を地名とした場合と、反対の場合とがある。たとえば古代豪族蘇我(そが)氏の居住した地域を曽我(そが)川とよび、同様に和邇(わに)氏や小野氏などの居住地が滋賀県では現存地名として残っている。また大阪市の高麗(こうらい)橋や佐賀県の唐津(からつ)などの名称は渡来人の居住地を物語る。ほかに、その数の多い東村、中村、小川、古川、泉、小清水、島村、谷中(やなか)、池本、大島、小島、森山などは自然地名を人名としたものが多く、その年代も新しいものが多い。また田村、沼田、桑原、橋本、竹林など土地利用や景観をとって人名としたものもある。また市町村名では気仙沼(けせんぬま)、沼津、大川などは自然名、四日市、大館(おおだて)市などは歴史地名を市名としたものである。
外国では、探検者や開拓者名を地名としたものが多い。たとえばニュージーランドのクック山やクック海峡はイギリス人探検家のJ. Cookの名をとったもの、タスマニアはオランダ人航海家A. Tasmanの名を冠した島である。そのほかワシントンは大統領G. Washingtonの名を冠した都市であり、パプア・ニューギニアのビスマーク諸島はもとドイツの保護領で将軍ビスマルクBismarckの名をとったものである。サンクト・ペテルブルグのソ連時代の名称レニングラードLeningradは革命家レーニンの名をとったもので、帝政時代にはピョートル1世が建設、ペテルブルグ、ペトログラードPetrogradともよばれた。
このほかアフリカにはイギリスの探検家スタンリーH. M. Stanleyを記念してスタンリー滝があり、南米の1月の川を意味するリオ・デ・ジャネイロRio de Janeiroは、ポルトガルの探検家が到達した年の月を都市名としたものである。
[藤岡謙二郎・鏡味明克]
一度名づけられた地名は政変その他によって改名されることが少なくない。第二次世界大戦後独立したアフリカの諸国では地名だけでなく国名までがその土地古来のものに変わっている。旧ベルギー領コンゴは1964年コンゴ民主共和国となり、71年以後はザイールZaire共和国となり、首都も古いレオポルドビルがキンシャサとなったが、97年コンゴ民主共和国に戻った。ほかにもなおブラザビルを首都とするコンゴ人民共和国があったが、91年コンゴ共和国となった。コンゴ盆地の名はそのままで、コンゴ川はザイール川ともよんでいる。またイギリス領南ローデシアは1980年にジンバブエZimbabwe共和国として独立した。同様に旧イギリス領ベチュアナランドはボツワナBotswana共和国となり、首都もハボローネとして新設された。そのほか旧ソ連では戦後スターリンにちなむ地名は改名され、スターリングラードはボルゴグラード、スターリノはドネツクとなった。さらに1991年のソ連崩壊後はレニングラードが旧称のサンクト・ペテルブルグに戻るなど、革命家にちなむ地名の旧称への復帰が進んでいる。日本の場合も、明治になって江戸が東京に変わったほか、静岡市はもと駿府(すんぷ)(駿河(するが)府中)または府中とよばれていたのが明治維新後静岡となったし、丹波(たんば)(京都府)の城下町亀山が亀岡となったごとき例は多くある。
近年では古い歴史地名を保存しようとする運動がある一方、難解地名を改変したり、1962年(昭和37)以後「住居表示に関する法律」の実施に伴ってかえられた地名が少なくない。地名はよきにせよ悪(あ)しきにせよ祖先が名づけた無形の文化遺産であり、各時代に命名された当時の社会的環境を物語っている。ところが1953年以後、広域都市圏構想が打ち出され、市町村合併によって新しい行政地名が誕生した。これらに刺激されて片仮名や平仮名の行政名が誕生した所もある。確かにわれわれは自己の居住地域の名称を、現状にふさわしいものとして改変しうる資格を有している。たとえば封建時代の牢屋(ろうや)町や傾城(けいせい)町などの名称は現在の町名としてはふさわしくないかもしれない。こんな場合や、とくに難解の市町村名は改変すべきかもしれない。しかしこの場合、もとの地名はなんといったかを、同時になんらかの形で国民にあわせ示すべきである。難解な地名の解釈が過去のその地域の歴史を解明する貴重な資料となるからである。
また地名や字(あざ)名を記した地籍図や土地台帳、さらに地名を記した古地図類も役場や公民館にたいせつに保存し、その土地住民の地名に関する知識を知らしめなければならない。この意味で近年地名の保存運動が盛んになっていることはけっこうなことである。また地名の研究は言語学や歴史学、地理学、民俗学などの研究上でも欠かすことのできない貴重な資料である。
ちなみに「住居表示に関する法律」は1985年に抜本的な改正が行われ、その改正附則では、「新たな町又は字の区域を定めた場合には、当該町又は字の名称は、できるだけ従来の名称に準拠して定めなければならない」と規定した。
[藤岡謙二郎・鏡味明克]
『柳田国男著『地名の研究』(1936・古今書院)』▽『鏡味完二著『日本地名学』(1957・日本地名学研究所)』▽『山口恵一郎著『地名の成立ち』(1967・徳間書店)』▽『吉田東伍著『増補 大日本地名辞書』全8巻(1969~71・冨山房)』▽『鏡味完二・鏡味明克著『地名の語源』(1977・角川書店)』▽『池田末則著『日本地名伝承論』(1977・平凡社)』▽『「角川日本地名大辞典」編纂委員会著『角川日本地名大辞典』県別全47巻、別巻全2巻(1978~90・角川書店)』▽『『日本歴史地名大系』(1979~2004・平凡社)』▽『藤岡謙二郎編『日本歴史地名辞典』(1981・東京堂出版)』▽『吉田茂樹著『日本地名語源事典』(1981・新人物往来社)』▽『鏡味明克著『地名学入門』(1984・大修館書店)』▽『山中襄太著『地名語源辞典』(1989・校倉書房)』▽『千葉徳爾著『新・地名の研究』(1994・古今書院)』▽『浮田典良・中村和郎・高橋伸夫監修『日本地名大百科 ランドジャポニカ』(1996・小学館)』▽『藤岡謙二郎著『日本の地名』(講談社現代新書)』▽『谷川健一著『日本の地名』(岩波新書)』
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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