名代子代(読み)なしろこしろ

改訂新版 世界大百科事典 「名代子代」の意味・わかりやすい解説

名代・子代 (なしろこしろ)

5,6世紀の日本古代国家において,朝廷天皇后妃皇子らに領有され,その王名や宮号を負って,これにミツギ(調)やエタチ(役)を提供した一団農民。いずれも部民で,その性格には共通性があるが,両者の区分はかならずしも明らかでない。《古事記》《日本書紀》では,〈子代〉を〈子〉がないため,その〈代りに〉置いたものとするが,〈代(しろ)〉とは名目あるものの実体・客体をさすことばで,〈子のために〉設定されたものとする方がよく,この点では宮の名を負う名代もおなじであろう。

 記紀の伝承をみると,品遅部(ほむちべ)=垂仁天皇皇子誉津別(ほむつわけ)命,伊登志部(いとしべ)=垂仁天皇皇子伊登志別(いとしわけ)王,武部(たけるべ)=景行天皇皇子日本武(やまとたける)尊,葛城部(かつらぎべ)=仁徳天皇皇后磐之媛(いわのひめ)(葛城氏出身),軽部(かるべ)=允恭天皇太子木梨軽(きなしかる)皇子,刑部(おさかべ)=允恭天皇皇后忍坂大中姫(おさかおおなかつひめ),穴穂部(孔王部)(あなほべ)=允恭天皇皇子穴穂(あなほ)皇子などの例が記録される。これにつづく時代に,長谷部(はせべ)=雄略天皇(大泊瀬幼武(おおはつせわかたけ),泊瀬朝倉(はつせのあさくら)宮),白髪部しらがべ)=清寧天皇(白髪大倭根子(しらがのおおやまとねこ)),勾部(まがりべ)=安閑天皇(勾金橋(まがりのかなはし)宮),檜隈部(ひのくまべ)=宣化天皇(檜隈廬入野(ひのくまのいほりの)宮),金刺部(かなさしべ)=欽明天皇(磯城嶋金刺(しきしまのかなさし)宮),他田部(おさだべ)=敏達天皇(訳語田幸玉(おさだのさきたま)宮)などが記録される。品遅部以下,穴穂部までは,后妃が皇子・王子を養育するため,壬生(乳父)(みぶ)としてその宮にあてられた,いわゆる湯沐(とうもく)料をさすものと思われ,子代にあたる。長谷部,他田部などの後者は天皇の宮にあてられ,舎人部(とねりべ),膳夫部(かしわでべ),靫負部(ゆげいべ)などに部の呼称が分かれているのをみると,宮に出仕する舎人,膳夫,靫負などのトモ(伴)の資養にあてられたベ(部)であると思われ,名代にあたると考えられる。いずれもそれを管理する氏族の所有に帰したものが多く,大化改新ですべて廃止された。
部民
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「名代子代」の意味・わかりやすい解説

名代・子代
なしろこしろ

大化(たいか)以前の皇室の領有民。伝承上は、天皇に皇子がないとき、それにかわって御名を長く伝えるため設けられたとされるが、事実は、皇子の養育や、宮に仕える舎人(とねり)や膳夫(かしわで)などの資養、宮の維持・経営のため設けられ、それを領有する后妃と皇子、または天皇の名や宮号を付して何々部と称された。したがって、名代・子代の区分はかならずしも明らかでない。まず皇子女の養育料と思われるものに、応神(おうじん)朝より雄略(ゆうりゃく)朝までの間に、蝮部(たじひべ)(蝮之水歯別(たじひのみずはわけ)皇子=反正(はんぜい)天皇)、孔王部(あなほべ)(穴穂(あなほ)皇子=安康(あんこう)天皇)など11例が知られ、いわゆる湯坐(ゆえ)、壬生(みぶ)にあたるのであろうが、他方、朝廷の舎人、膳夫の資養料として、雄略朝から崇峻(すしゅん)朝までの間に、白髪部舎人(しらがべのとねり)、膳夫、靭負(ゆげい)(白髪命(しらがのみこと)=清寧(せいねい)天皇)、他田(おさだ)舎人部、日奉部(ひまつりべ)(訳語田幸玉宮(おさだのさきたまのみや)=敏達(びだつ)天皇)など11例が知られ、これらは国造(くにのみやつこ)一族から朝廷に出仕した舎人などのトモ(伴)を資養するために、国造の治下に設けられた農民のベ(部)をいう。総じて前者は皇子女を養育する母方の氏族に伝領され、後者は朝廷の伴造の管理下に置かれたようである。6世紀末ごろから皇后、皇太子の地位が確立すると、その地位に付属し、特定の名を付されず、歴代の宮廷に伝領される、私部(きさきべ)、壬生部などが現れる。大化改新では御子入部(みこいりべ)、御名(みな)入部が廃されたが、子代・名代の廃止とみてよかろう。しかし、皇后、皇太子の料民の一部は、律令(りつりょう)制のもとでも湯沐(とうもく)または食封(じきふ)として存続した。

[平野邦雄]

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「名代子代」の解説

名代・子代
なしろ・こしろ

大化前代の部の一種。名代は御名代の部ともいうべきもので,大王(おおきみ)の宮号を部名とし,宮の経営に必要な舎人(とねり)・靫負(ゆげい)・膳夫(かしわで)などの伴(とも)を地方の在地首長から徴発し,その伴の資養物を貢納させるための組織。雄略天皇の泊瀬(はつせ)朝倉宮に仕えた長谷部(はせべ),安閑天皇の勾(まがり)金橋宮に仕えた勾部などがある。子代は子代の民ともいわれ,王族の名を部名とし,王族の子女の養育のために設定された組織。壬生部(みぶべ)などに相当するものと思われる。垂仁天皇の皇子伊登志別(いとしわけ)王の名にちなむ伊登志部,景行天皇の皇子日本武尊(やまとたけるのみこと)の名にちなむ武部(たけるべ)(建部)などがある。名代・子代と連称されたのは同一の性格とみなされたためと思われるが,両者の関係は不明な点が多い。

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世界大百科事典(旧版)内の名代子代の言及

【氏姓制度】より

…彼らは朝廷をはじめ,天皇,后妃,皇子らの宮,さらに臣,連らの豪族に領有・支配される部民などがまずあげられるが,このような階層には,まだ氏姓は及んでいなかったとみられよう。ただ,そのなかでは,朝廷に出仕して,職務の名を負う品部(しなべ),王名,宮号を負う名代(なしろ)(名代・子代),屯倉(みやけ)の耕作民である田部(たべ)などの先進的な部民に,共同体のなかの戸を単位に編成されるもの,6世紀には,なんらかの籍帳に登載されるものが現れたことが予測され,比較的はやく氏姓を称するにいたったのであろう。それにたいし,豪族の支配下にあった民部(かきべ)は,在地の族長を介して,共同体のまま部に編入し,族長をへて貢納させる形のものが多く,各戸に豪族名を付して,某部・某人部などと称することはなかったと思われる。…

【湯沐】より

…またこの記事から,湯沐の制度は大宝令制施行以前に存在したことが明らかである。古くは名代・子代(なしろこしろ)等に系譜をひくもので,7世紀中葉に名代・子代が廃止されるにしたがって設定されたものと思われる。また壬申の乱に際して活躍した湯沐令の場合は,大海人(おおあま)皇子への湯沐であったと思われ,湯沐の管理者である令と皇子とのあいだには密接な関係が存在していたものといえる。…

【部民】より

…このように下部組織を形成する伴や部を〈トモ〉ともいい〈ベ〉ともいうのは,百済の官司の諸部の制度を輸入して朝廷の政治組織を革新したとき,朝廷の記録をつかさどっていた百済の帰化人=史部(ふひと∥ふひとべ)が,本国の習慣に従い,漢語の〈部〉とその字音の〈ベ〉を,日本の〈伴〉の制度に適用したために生じたとみるのが正しいであろう。 さらに,このような官司制を統轄した臣・連・伴造らの畿内貴族は,その経済的基盤として,部曲・民部(かきべ∥かきのたみ)の領有を公認され,天皇・后妃・皇子もおのおのの宮の経営や子女の養育の資として,名代・子代(なしろこしろ)を設定した。これらの部民は各地域の農民集団をさし,地方の国造(くにのみやつこ)にひきいられ,主家に力役や貢納の義務を負ったが,名代はさらに国造の一族から舎人(とねり),采女(うねめ)などを天皇・后妃の近侍者として差し出す慣習があった。…

※「名代子代」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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