幸田延(読み)コウダノブ

デジタル大辞泉 「幸田延」の意味・読み・例文・類語

こうだ‐のぶ〔カウだ‐〕【幸田延】

[1870~1946]音楽教育家・ピアノ奏者。東京の生まれ。露伴の妹。ウィーンに留学。明治・大正期の音楽界の中心的人物。

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精選版 日本国語大辞典 「幸田延」の意味・読み・例文・類語

こうだ‐のぶ【幸田延】

  1. ピアニスト、音楽教育家。露伴の妹、安藤幸の姉。音楽取調所全科を卒業し、アメリカ、オーストリアに留学。帰国後、東京音楽学校教授として後進の育成に尽くす。芸術院会員。明治三~昭和二一年(一八七〇‐一九四六

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新撰 芸能人物事典 明治~平成 「幸田延」の解説

幸田 延
コウダ ノブ


職業
音楽教育家 バイオリニスト ピアニスト

肩書
東京音楽学校教授 帝国芸術院会員〔昭和12年〕

生年月日
明治3年 3月19日

出生地
東京・下谷

学歴
文部省音楽取調掛(第1期生)〔明治18年〕卒,ウィーン音楽院〔明治28年〕修了

経歴
父・成延は江戸幕府の表坊主役を務め、長兄の成常は実業家、郡司家に入籍した次兄の成忠は海軍軍人となって千島探検を行い、三兄の成行は露伴と号した小説家、弟の成友は歴史学者、妹の幸はバイオリニストとしてそれぞれ名を成した。母の猷は和歌や和楽をよくし、その影響で幼い頃から長唄、琴、三味線を習う。10歳の時に文部省音楽取調掛に勤務していたお雇い外国人メーソンに音楽の才能を見出され、その個人指導でピアノや洋楽を学んだ。明治15年メーソンの勧めで同掛に入り、我が国初の女子留学生の一人である瓜生繁子らに師事。当時は楽譜も満足に入手できず、自ら五線紙に譜を書き写すなど手探り状態の音楽教育が続いていた。明治18年音楽取調所(同掛から改称)を優秀な成績で卒業した後は同所研究科に在籍する傍ら同校助手となり、弱冠15歳で教える立場となった。21年からはルドルフ・ディットリヒの薫陶を受け、その推薦により22年第1回文部省留学生として渡米し、ボストンのニューイングランド音楽院でヨーゼフ・ヨアヒム門下のエミール・マールのもとでバイオリンを習得。1年後に帰国するが、さらに24年ウィーン音楽院に留学し、ヨーゼフ・ヘルメスベルガーにバイオリンを、フレーデリク・ジンガーにピアノを、ロベルト・フックスに作曲を学ぶなど本格的な音楽教育を受けた。28年帰国後は母校の助教授となり、32年教授に就任。また新しい時代を象徴する女性として期待と人気を集め、新聞紙上の「婦人音楽家の人気投票」(25年)で洋楽部門の第1位に輝いたほか、29年の帰朝披露演奏会ではメンデルスゾーン「バイオリン協奏曲ホ短調」第一楽章の独奏やシューベルト「死と乙女」の独唱などを行い、好評を博した。作曲や編曲でも才能を発揮し、帰朝早々にバッハの「バイオリン・ソナタ」を弦楽合奏用に編曲。30年には日本人による最初の本格的な器楽曲である「バイオリン・ソナタ ニ短調」を作曲した。31年東大哲学科の教師であり、すぐれたピアニストでもあったラファエル・フォン・ケーベルが東京音楽学校でピアノレッスンを行った際の通訳も務めた。その後、ケーベルの教えを受けてピアノ教師に転向。以来、“音楽教育界の大御所”“上野の女王”と呼ばれ、滝廉太郎、本居長世、久野久子、三浦環ら次代を担う多くの俊英を育てるとともに、皇族の音楽指導にも当たるなど、明治音楽界における女性の第一人者として尊敬を集めた。しかしそれがかえって災いし、同校における男女学生の風紀問題や恋愛沙汰などが新聞に取り上げられると批判の矢面に立たされ、明治42年同校を退職。同年〜43年欧米を視察。以後は自宅に審声会を開き、ピアノの個人教授を行った。大正4年日本の女性の手による初の交響曲「大礼奉祝曲」(混声四部合唱付)を作曲。昭和6年には楽壇生活50周年を記念した祝賀演奏会が開かれ、明治天皇の御製を歌詞とした自作曲「あさみどり」が演奏された。12年音楽家として、また女性としてはじめて芸術院会員となる。他の作品に「地久節の歌」などがある。生涯独身であった。

没年月日
昭和21年 6月14日 (1946年)

家族
兄=郡司 成忠(海軍大尉),幸田 露伴(小説家),妹=安藤 幸(バイオリニスト),弟=幸田 成友(歴史学者)

親族
甥=高木 卓(ドイツ文学者),姪=幸田 文(小説家)

伝記
幸田姉妹―洋楽黎明期を支えた幸田延と安藤幸ピアニストという蛮族がいる日本の『創造力』―近代・現代を開花させた470人〈9〉 不況と震災の時代 萩谷 由喜子 著中村 紘子 著富田 仁 編(発行元 ショパン文芸春秋日本放送出版協会 ’03’95’93発行)

出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報

20世紀日本人名事典 「幸田延」の解説

幸田 延
コウダ ノブ

明治〜昭和期の音楽教育家,バイオリニスト,ピアニスト 東京音楽学校教授。



生年
明治3年3月19日(1870年)

没年
昭和21(1946)年6月14日

出生地
江戸・下谷(現・東京都台東区)

別名
別名=幸田 延子(コウダ ノブコ)

学歴〔年〕
文部省音楽取調掛(第1期生)〔明治18年〕卒

経歴
10歳からアメリカ人メーソンについて洋楽を学ぶ。文部省音楽取調掛(東京音楽学校の前身)卒業後、母校に奉職し、明治22〜28年第1回文部省留学生としてボストンのニューイングランド音楽院、ウィーン音楽院に留学。帰国後も42年まで東京音楽学校教授をつとめ、多くの門下生を育てた。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「幸田延」の解説

幸田延 こうだ-のぶ

1870-1946 明治-昭和時代前期のピアニスト,音楽教育家。
明治3年3月19日生まれ。幸田露伴の妹。安藤幸(こう)の姉。音楽取調所(のち東京音楽学校)の第1回卒業生。明治22年から欧米に留学。28年東京音楽学校(現東京芸大)教授となり,おおくの門下生をそだてる。44年審声会を創設,家庭音楽の普及につとめた。昭和12年芸術院会員。昭和21年6月14日死去。77歳。東京出身。

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朝日日本歴史人物事典 「幸田延」の解説

幸田延

没年:昭和21.6.14(1946)
生年:明治3.3.19(1870.4.19)
明治から昭和にかけてのバイオリン・ピアノ奏者。洋楽黎明期に活躍。東京生まれ。明治18(1885)年,音楽取調掛(東京芸大音楽学部)全科第1回卒業。同校初の海外留学後は教授活動が中心。バイオリン・声楽から,ピアノに転じ,多くの子弟を育て,皇室でも教えた。兄が幸田露伴と郡司成忠,妹はバイオリエストの安藤幸。

(増井敬二)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

367日誕生日大事典 「幸田延」の解説

幸田 延 (こうだ のぶ)

生年月日:1870年3月19日
明治時代-昭和時代のバイオリニスト;ピアニスト;音楽教育家
1946年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の幸田延の言及

【東京音楽学校】より

…彼は西洋音楽の正統な技術を伝え,その普及に大きな役割を果たし,94年帰国した。1889年,最初の政府派遣音楽専修生として幸田延(1870‐1946。音楽取調掛第1回卒業生)が6年間の海外留学に出発,帰国後,教授に就任した。…

※「幸田延」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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