オーストリアの作曲家。歌曲をはじめ管弦楽曲、室内楽、ピアノ曲などに多くの優れた作品を残し、ドイツ・ロマン派初期を代表する。
[石多正男]
1月31日、教員で敬虔(けいけん)なカトリック教徒の父フランツ・テオドールと、シュレージエン地方出身の母エリーザベトの間に、ウィーンに生まれた。幼くして父にバイオリンの手ほどきを受けたのち、リヒテンタール教区教会のオルガン奏者ホルツァーMichael Holzerに師事。ホルツァーはシューベルトの才能を「なにか新しいことを教えようとしても、この子はもうそれを知っている」と語った。1808年、採用試験に及第して帝室王立神学校の合唱隊員になった。ここではアントニオ・サリエリなど当時一流の作曲家の教えを受けると同時に、友人シュパウンJosef von Spaun(1788―1865)が組織した学生管弦楽団のバイオリン奏者、のちには指揮者を務めた。また、学校の休暇には父や兄たちと弦楽四重奏曲を楽しみ、多くの音楽体験を重ねた。13年神学校を去るまでに、すでにドイッチュ番号82(以下Dと略称)の交響曲第1番、弦楽四重奏曲、歌曲などを作曲している。家に帰ったシューベルトは師範学校に通ったのち、16年まで父の学校で教員を務めた。内気な性格のため教職に苦労したが、作曲の面では秀作を残した。この時期の代表作には、1814年リヒテンタール教会で作曲者の指揮のもとに演奏されたミサ曲ヘ長調(D105)、歌曲『糸を紡ぐグレートヒェン』(D118)、15年には歌曲『さすらい人の夜の歌Ⅰ』(D224)、『野ばら』(D257)、『魔王』(D328)などがある。シューベルトの作品に魅せられた友人たちが集まって、彼の音楽に親しむシューベルティアーデはこのころから行われるようになった。18年と24年の2回、シューベルトはヨーハン・エステルハージ伯爵家の音楽家庭教師として、ハンガリーのゼレチュに招かれた。その令嬢であるマリーとカロリーネを指導するためであったが、彼は後者に思いを寄せたといわれる。ハンガリー滞在を機に、連弾用ピアノ曲『ハンガリーのディベルティスマン』(D818・作品54)が作曲された。当時ウィーンの音楽界で輝かしい成功を収めるためには、オペラで成功することがもっとも近道であった。彼も死ぬまで再三にわたりオペラを書こうとしている。1816年友人のショーバーFranz von Schober(1796―1882)から当時の有名なオペラ歌手ヨーハン・フォーグルを紹介された。この歌手のためにシューベルトは19年ジングシュピール『双生子(ふたご)』(D647)を作曲した。しかし、他の劇場作品と同様、これも数回公演されただけで忘れられてしまった。彼の名はむしろ21年に『魔王』が作品1として出版されたことにより、歌曲作曲家として知られていった。フォーグルはこの時期、シューベルトの歌曲を世に広めるうえで大きな貢献を果たした。有名な交響曲「未完成」(D759)は22年に作曲された。この交響曲は通常交響曲が4楽章であるのに対し、第2楽章までしか完成されていないためこの名がある。なぜ未完成に終わったかについては諸説あるが、近年では、22年末に発病した病気(おそらく梅毒)のためであろうといわれている。この病による頭痛は一生シューベルトを苦しめる結果になった。23年病苦のなかで作曲された歌曲集が、水車職人の悲しい物語『美しい水車屋の娘』(D795・作品25)である。24年のシューベルトの手紙の一節は当時の彼の心を浮き彫りにしてくれる。「僕はこの世でもっとも不幸な、もっとも哀れな人間だと思う。決して治ることのない病気をもった人間のことを考えてみてください。」
彼を苦しめる病気が進む一方、彼の名声はしだいにオーストリア国外にも広がっていった。1825年にはベルリンで当時の有名な女性歌手アンナ・ミルダ・ハウプトマンが『魔王』を演奏、また、シューベルトはイギリスの作家スコットの『湖上の美人』からの詩に作曲した『エレンの歌』(D837~839・作品52。第3曲が有名な『アベ・マリア』)に英語の原詞を添えて出版した。彼は自分の名をイギリスにも広めたかったのであろう。死の前年の27年、第5曲に『菩提樹(ぼだいじゅ)』を含む歌曲集『冬の旅』(D911・作品89)を作曲、死の年の3月には自作だけのコンサートを催し成功を収め、その後、交響曲「グレート」(D944)、弦楽五重奏曲(D956)、歌曲集『白鳥の歌』(D957)などの大作を完成させたが、28年11月19日、31歳10か月の若さで没した。その遺骸(いがい)は、本人の希望により、ウィーンのウェーリング墓地のベートーベンの墓のそばに葬られた(両者の遺骸は1888年に中央墓地に移されたが、もとの二つの墓碑は現在シューベルト公園とよばれる旧ウェーリング墓地にある)。
[石多正男]
シューベルトの作品は作品番号の与えられているものがきわめて少なく、それも作曲年代順と一致しないので、今日ではドイッチュOtto Erich Deutsch(1883―1965)が全作品を年代順に整理した通し番号、ドイッチュ番号(略称D)の使用(ないしは作品番号の併用)が一般になっている。ドイッチュの作品目録によると、シューベルトの全作品は998を数え、このうち歌曲は630曲余りある。これらによってシューベルトは、彼以前には民謡の域を出なかった歌曲を芸術歌曲にまで高めたのである。その旋律の流麗さ、和声の美しい移りゆき、伴奏ピアノの自律性などに高い評価が与えられている。このため彼はしばしば「歌曲の王」とよばれる。しかし、彼の才能はオペラ、ミサ曲、交響曲、室内楽、ピアノ曲などにも発揮されており、いずれも音楽史的に重要な位置を占めている。以下、各ジャンルの主要作品を概観する。括弧(かっこ)内の作品に続く数字は作品の完成年である。
[石多正男]
ミサ曲は完成したものが6曲ある。第5番変イ長調(D678・1822)と第6番変ホ長調(D950・1828)が今日でもしばしば演奏される。小品ながら『ドイツ・ミサ曲』(D872・1827)も少年合唱団などの演奏により広く親しまれている。
[石多正男]
あまり知られていないが、シューベルトは声楽カノン、三重唱曲、四重唱曲のほか、規模の大きい二重合唱のための作品など、この楽種で総計100曲以上作曲している。作者の生前から愛好された作品に、男声四重唱曲『小さな村』(D598・作品11の1・1817)、『ゴンドラをこぐ人』(D809・作品28・1824)、男声八重唱と低音弦楽器のための『水上の精霊たちの歌』(D714・作品167・1821)、女声四重唱のための『詩篇23番』(D706・作品132・1820)などがある。
[石多正男]
今日残された完成作は7曲であるが、未完に終わった第8番「未完成」(D759・1822)はあまりにも有名。1828年に完成されたハ長調交響曲(D944)は、シューマンが述べた「天国的な長さ」をもち、「グレート」ともよばれる。なおこの交響曲は、旧シューベルト全集では第7番とされたが、その後「未完成」よりもあとに作曲されたことを考慮して第9番、さらに近年では「未完成」を第7番、これを第8番とよぶようになっている。またこの交響曲は、紛失したと考えられていた『グムンデン・ガシュタイン交響曲』(D849)と同じ作品ではないかという説が近年出されている。
[石多正男]
弦楽四重奏曲は今日残された完成作が13曲ある。これに未完成の2曲(D68とD703)を加えて第15番までの通し番号がつけられている。第13番イ短調「ロザムンデ」(D804・作品29・1824)と第14番ニ短調「死と乙女」(D810・1824)はともに緩徐楽章に変奏曲が用いられている。ピアノ五重奏曲「鱒(ます)」(D667・作品114・1819)も第4楽章に自作のリート『鱒』を主題とした変奏曲を使っている。弦楽五重奏曲(D956・1828)はバイオリン(2)、ビオラ(1)、チェロ(2)の編成で、シューベルトの室内楽の最高傑作に数えられる。ほかに、ピアノ三重奏曲、旋律楽器とピアノのための作品がいくつかある。
[石多正男]
完成したソナタは13曲ある。そのほか、リート『さすらい人』(D493・作品4の1・1816)の主題を用いた幻想曲「さすらい人」(D760・作品15・1822)、二つの即興曲集(D899・作品90・1827、D935・作品142・1827)などがある。また、30曲を超えるさまざまの連弾曲はモーツァルトの作品とともに今日でも広く親しまれている。
[石多正男]
「生涯」のなかで触れた作品以外にも佳作はきわめて多い。自然の美しさ、快さを歌ったものに『水の上で歌う』(D774・作品72・1823)、『春に』(D882・作品101の1・1826)、『セレナード(きけ、きけ、ひばり)』(D889・1826)、『緑の中での歌』(D917・作品115の1・1827)、音楽への感謝、音楽のすばらしさを歌ったものに『音楽に寄せて』(D547・作品88の4・1817)、『ミューズの子』(D764・作品92の1・1822)、恋心を歌った『君こそは憩い』(D776・作品59の3・1823)、世界の子守歌のなかでもっとも親しまれている『子守歌』(D498・作品98の2・1816)、ゲーテの『ウィルヘルム・マイスター』からの3曲の『ミニョン』(D321.1815、D726と727.1821)、3曲の『竪琴(たてごと)弾き』(D478・作品12・1816・1822)などがある。
[石多正男]
ドイツの自然研究家、哲学者。ザクセン地方の牧師の家に生まれる。ライプツィヒ大学、イエナ大学で医学を専攻。ヘルダー、シェリングの思想の流れをくみ、宇宙を生命ある統一体とみる立場から自然界の諸現象、夢、催眠、動物磁気療法などを論じた『自然科学の夜の側面についての見解』(1808)と『夢の象徴学』(1814)によって、ドイツ・ロマン派の作家たち、とくにクライスト、E・T・A・ホフマンなどに深い影響を及ぼした。
[鈴木 潔]
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オーストリアの作曲家。初等学校を経営するモラビア出身の父フランツと,母エリーザベトの第4子としてウィーン市外のリヒテンタールに生まれた。早くから楽才を示し,11歳で王室礼拝堂の少年聖歌隊員に採用され,国立神学校で音楽教育を受けた。彼はすでにこの時期にサリエリに才能を認められ,演奏と作曲に腕をふるった。16歳の変声と共に神学校を去り,教員養成課程に進み,父の学校の助手として働きながら作曲を続けた。17歳のときに《交響曲第1番》ニ長調を,そして《糸を紡ぐグレートヘン》を,さらに翌1814年,《野ばら》《魔王》《たゆみなき愛》等のリートの名作を作り,歌曲作曲家としての将来を決定づけた。友人の勧めでゲーテの詩によるリートをゲーテに送って無視されたのもこの時期である。彼はJ.vonシュパウンをはじめ,マイヤーホーファー,A.ヒュッテンブレンナー,クーペルウィーザー,J.M.フォーグルら,文学青年や音楽家の友人に恵まれ,安定した職のないままに,友人の家に寄寓したり,エステルハージ伯家の音楽家庭教師としてハンガリーに滞在したり,父の手伝いをしたり,かなり自由な生活をしながら作曲を続けた。特に歌手フォーグルの紹介でウィーンの上流家庭の社交集会で,詩の朗読等と共に自作のリートを紹介する機会を得て,名声を博した。その結果21年には《魔王》の予約出版が成功し,ウィーンとオーストリアで知名の音楽家となった。1820年ころには彼のまわりに多くの芸術家や愛好者が集まり,彼の新作を聞くための〈シューベルティアーデ〉ができた。22年にはシュタイアーマルクの音楽協会の名誉会員に推挙されたが,その返礼として《未完成交響曲》を作曲した。翌23年は特に実りの多い年で,リート《美しき水車小屋の娘》のほか,ロマンティック劇《ロザムンデ》,ピアノ独奏曲《楽興の時》等を作曲し,ピアノ曲や劇音楽にも新境地を開いた。シューベルト自身は,その数多いリート作曲にもかかわらず,ベートーベンを崇敬して,交響曲作家を志し,また初めからオペラの作曲に異常な情熱を燃やした。しかし,良い台本に恵まれなかったことと,彼の音楽の性質から,ついにオペラでは成功しなかった。24年には弦楽四重奏曲《死と少女》,26年には《ドイツ・ミサ曲》を,そして翌27年には作品90と142のピアノの《即興曲》,晩年のリートの傑作《冬の旅》やピアノ三重奏曲が生まれる。この年の3月26日にベートーベンが没し,シューベルトはその葬儀に参列している。28年1月28日の夜シュパウン邸で盛大な〈シューベルティアーデ〉が催されたが,これが最後の催しになった。この年にハイネとレルシュタープの詩を得て13のリートを作曲したが,それは彼の死後《白鳥の歌》として出版された。また9月には弦楽五重奏曲ハ長調の傑作が生まれている。若い頃からの不節制とチフスのためこの年31歳の短い生涯を閉じた。
シューベルトのリートは,ドイツ・ロマン派のリート芸術の出発点に位置するが,その深い言葉の把握,またそのピアノ伴奏と一体をなすみごとな作曲法は,どちらかというとモーツァルト,ベートーベンらのウィーン古典派(古典派音楽)の技法と精神に近い古典的なものである。彼のリートこそロマン主義的であるとする考え方もあるが,H.W.フェッター,T.ゲオルギアデスらのシューベルトの研究者は,これをむしろ古典的なものとしてとらえている。これに反し,よく歌う旋律,ウィーン風のリズム,豊かな音色と鮮やかな転調等によって特色づけられる彼の交響曲,室内楽曲,また即興曲や《楽興の時》の抒情的ピアノ作品は,たとえ彼がベートーベンを師と仰いだにせよ,明らかにロマン派(ロマン派音楽)の器楽の世界に直接つながるものである。
《シューベルト,生涯と創作の記録》《シューベルト,作品目録》を残したドイッチュOtto Erich Deutsch(1883-1967)を名誉会長として,《シューベルト新全集》刊行のため,〈シューベルト協会〉が1963年カッセルに設立された。
執筆者:谷村 晃
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1797~1828
オーストリアの作曲家。美しい旋律を特質とし,ゲーテ,シラーなどの詩に作曲して優れた歌曲を多くつくり,八つの交響曲,「ロザムンデ」などの歌劇を作曲したが,貧窮と病苦のうちに死んだ。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…シューベルトの連作歌曲集(作品25)。1823年5月に作曲が開始され,初版の5分冊の楽譜は,24年3月から8月にかけて出版された。…
…このほか芸術歌曲には,有節形式を枠組みとしながら,詩節の気分の推移に従って音楽が部分的に変化する変化有節形式や,同一の曲調がまったく繰り返されることなく,詩節の全体を通じて作曲される通作形式に属するものもある。F.シューベルトのリートを例にとれば,《野ばら》が第1の型,《菩提樹》が第2の型,《魔王》が第3の型の実例である。 西洋音楽の歴史では,早くも中世のトルベールやミンネジンガー(ミンネゼンガー)など騎士歌人の作品に有節形式の歌曲が現れる。…
…特に絶対音楽的性格と標題音楽的性格,単一動機による全曲の統一,新しい楽器と声部の導入などは,以後の交響的作品に決定的な影響を及ぼした。 ほぼ同時期にウィーンで活躍したシューベルト(完成7曲。未完,断片,スケッチ数曲。…
…形式上の規則はなく,リート形式,ソナタ形式などさまざまである。早い例は1822年に出版されたチェコの作曲家ボジーシェクJan Václav Voříšek(1791‐1825)の《即興曲集》で,シューベルトが1827年に作曲した8曲(作品90と作品142の《四つの即興曲》)によって不朽のものとなった。シューベルト以後はショパン,シューマン,フォーレの作品が有名である。…
…この方向はやがてハイドン,モーツァルト,ベートーベンらのウィーン古典派の交響曲や室内楽に結集され,ドイツ的なものを中心にイタリアや東欧の要素を内に含んで,全ヨーロッパに通用するドイツ音楽の頂点を形成した。しかし,われわれはウィーン古典派の純粋器楽のうちに,シュッツやバッハが開拓したドイツ的音楽語法が生きていること,そしてまたこのドイツ音楽とドイツ語の深い内的結びつきが,シューベルトに始まり,ロマン派の時代に展開するドイツ・リートの世界を支えていることを忘れてはならない。さらに従来最もおくれていた分野であるオペラが,モーツァルトのイタリア・オペラやドイツ語のジングシュピールにおいて開花し,やがてウェーバーのロマン主義的ドイツ国民オペラの確立を促し,ついには19世紀後半のR.ワーグナーの楽劇にまで達するのを見る。…
…F.シューベルトの晩年の遺作を集めて,1829年ウィーンの出版社ハスリンガーが歌曲集として出版したもの。 H.F.L.レルシュタープの詩による7曲,ハイネの詩による6曲に,J.G.ザイドルの詩による《鳩の郵便Die Taubenpost》を加えた14曲からなる。…
…シューベルトが1822年に着手し,最初の2楽章を完成し,以下を未完に放置した《交響曲第7番ロ短調》(D(ドイッチュによる作品整理番号)759)。66年ヘルベックJohann Herbeck(1831‐77)がウィーンで初演するまで完全に埋もれていた。…
…したがって音楽にロマン主義が浸透すると,それが果たす役割は他の芸術に比べても著しいものがあった。広い意味でロマン主義の音楽というなら,19世紀の音楽史は,ひと口にシューベルトからマーラーまで,その視野に収められてしまう。この世紀のすべてをロマン主義からとらえることはできないが,少なくともほとんどの事象はこの概念をぬきにしてはとらえられない。…
※「シューベルト」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
〘 名詞 〙 年の暮れに、その年の仕事を終えること。また、その日。《 季語・冬 》[初出の実例]「けふは大晦日(つごもり)一年中の仕事納(オサ)め」(出典:浄瑠璃・新版歌祭文(お染久松)(1780)油...
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