ドイツの作曲家。祖父はドイツのソクラテスとよばれた啓蒙(けいもう)主義哲学者モーゼス・メンデルスゾーン、父は銀行家アブラハム・メンデルスゾーンというユダヤの名門家系の出身である。2月3日ハンブルクで生まれたが、同市がフランス軍に占領されたため、1811年には一家はベルリンに移った。幼少より音楽、美術、文学に天分を発揮し、教養ある両親をはじめ、ベルリンの優れた芸術家、学者たちの指導を受け、才能は異例の早さで開花していった。16年にはキリスト教の洗礼を受け、そのことを明示するためにメンデルスゾーン・バルトルディとも名のった。19年以来作曲と音楽理論をツェルターに師事、バッハの対位法とモーツァルトの古典的様式を理想とした教育を受けた。21年ツェルターに連れられてワイマールのゲーテを訪問、以後5回の訪問によって多大な影響を受ける。25年にはパリを訪れ、ケルビーニの推薦によって職業音楽家としての道を選ぶことになるが、モシェレス、ロッシーニなどの音楽家との出会いもあった。
若きメンデルスゾーンの思想に大きな影響を与えたのはジャン・パウル、シェークスピア、ゲーテだが、弦楽八重奏曲変ホ長調(1825)のスケルツォは『ファウスト』の「ワルプルギスの夜」に拠(よ)っており、シェークスピアへの傾倒は序曲『真夏の夜の夢』(1826)を生んだ。1829年弱冠20歳のメンデルスゾーンはバッハの『マタイ受難曲』をほぼ1世紀ぶりに復活上演し大成功を収め、その年のイギリス旅行の印象は序曲『フィンガルの洞窟(どうくつ)』(1830)、交響曲第3番「スコットランド」(1842)に結実した。翌30年のイタリア旅行は交響曲第4番「イタリア」(1833)を生んでいる。33年デュッセルドルフでのニーダーライン音楽祭で大成功を収めた彼は、同地の音楽監督の地位を得て、ゲーテの理想に従った劇場を設立したり、『メサイア』をはじめとするヘンデルのオラトリオを上演し、その影響下にオラトリオ『聖パウロ』(1836)を作曲した。ピアノ曲集『無言歌』(1829~45)の多くもデュッセルドルフ市長ウォーリンゲンのサロンのために作曲されている。
1835年ライプツィヒ・ゲバントハウス管弦楽団の第5代指揮者に就任したメンデルスゾーンは、同市の音楽生活を一躍ドイツの中心的存在にまで高めた。バッハをはじめとする古い音楽の紹介とともに、同時代者の作品の演奏に献身的な努力を惜しまなかった。こうしてシューマン、ニールス・ガーゼ、ベルリオーズの作品が紹介され、39年にはシューマンによって発見されたシューベルトの交響曲ハ長調「グレート」が初演された。自らは演奏に直接加わらず指揮棒のみを用いるという、近代指揮法を確立したのも彼の功績であった。なお、39年にはフランクフルトで同地のフランス系改革派教会の牧師の娘セシル・シャルロット・ソフィア・ジャンルノーと結婚し、幸福な家庭生活を送り、3男2女を得ている。
1843年ライプツィヒ音楽院の設立に貢献したことも忘れてはならない。彼は自ら院長を務めたが、聖トマス教会合唱長のモーリツ・ハウプトマン(和声学、対位法)、シューマン(ピアノ、作曲)、フェルディナント・ダーフィト(バイオリン)、カール・フェルディナント・ベッカー(オルガン、音楽史、理論)といった当代一流の音楽家を教授陣に迎えることに成功したのも彼の手腕によるところが大きい。ライプツィヒに本拠を置きながらもデュッセルドルフ、ロンドン、ベルリンなど各地で指揮者として、さらにはピアノやオルガンの名演奏家としての活躍を続けたが、47年5月に姉のファニー・ヘンゼルが急死したショックから健康を害し、同年11月4日にライプツィヒで世を去っている。晩年の名作としてバイオリン協奏曲ホ短調(1844)、オラトリオ『エリア』(1846)がある。
[樋口隆一]
『H・クッファーバーグ著、横溝亮一訳『メンデルスゾーン家の人々――三代のユダヤ人』(1985・東京創元社)』
ドイツ啓蒙(けいもう)時代の哲学者で、ライプニッツ・ウォルフ学派の一人。ドイツ東部デッサウの貧しいユダヤ人の子として生まれる。神の存在や霊魂不滅の証明に力を注ぎ、これこそが哲学の究極的課題であるとした。ベルリン・アカデミーが1763年に形而上(けいじじょう)学的真理の判明性に関する論文を募集したところ、彼がカントを抑えて首位を得た。道徳哲学の確立に努め、信仰の自由を主張するなど、啓蒙時代の代表者らしい活動ぶりであったが、ウォルフよりもさらに通俗的と評されている。著名な音楽家メンデルスゾーンは彼の孫。
[武村泰男 2015年4月17日]
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ドイツの作曲家。ユダヤ系ドイツ人として,ハンブルクで富裕な銀行家の家に生まれ,1811年ベルリンに移り住んだ。音楽教育は早くから始められ,ゲーテと親しいC.F.ツェルターにも師事した。10歳のときから作曲を始めるが,声楽はバッハやヘンデル,器楽ではとくにベートーベンから強い影響を受けた。それゆえ,初期の作品においては,声楽は古いスタイルに従い,器楽ではかなり大胆な試みがなされるという二重の様相を呈している。27年C.W.L.ハイゼによる家庭での教育を終えてベルリン大学に学び,とくにヘーゲルの美学講義に興味をもった。29年ベルリン・ジングアカデミーを指揮してバッハの《マタイ受難曲》を再演し,バッハ・ルネサンスの開幕を印した。同年イギリス旅行,次の年にはイタリア旅行を企て,これまでベルリンに限られていた活動舞台を世界に広げた。すでにワイマール(1821),パリ(1825)などを訪問していたが,旅行時代は24歳のときまで続き,この旅行を通じてロッシーニ,ドニゼッティ,ベルリオーズ,ショパン,リストら多くの作曲家に会い,また旅先の自然体験から,管弦楽序曲《フィンガルの洞窟》(1832),《イタリア交響曲》(1833),《スコットランド交響曲》(1842)などの名作の楽想を得た。
33年デュッセルドルフ市の音楽監督,2年後にはライプチヒのゲバントハウス管弦楽団の指揮者に就任。37年に結婚,5児を得て家庭は幸福であった。ライプチヒ音楽院の創設(1843)に尽力,教育活動にも加わった。それに加えて,毎年のようにニーダーライン音楽祭やイギリスのバーミンガム音楽祭に出かけ,この時期はまさしく身を削るような忙しい日々の連続であった。しかし,その間にあっても創作のほうは順調に進み,付随音楽《真夏の夜の夢》(1842),《バイオリン協奏曲ホ短調》(1844),室内楽曲,ピアノ曲(《厳格な変奏曲》1841,8巻の《無言歌》),合唱曲《最初のワルプルギスの夜》(1832),歌曲,オラトリオ《エリア》(1846)など,多様な領域において数多くの作品が生み出された。しかし,この多忙な生活による疲労が重なって健康を害し,それにピアノ奏者だった姉ファニーFanny(1805-47)の死による精神的打撃も加わって,47年38歳の若さで世を去った。
彼の音楽には,古典的形式の枠組みにロマン的な内容が慎み深く盛りこまれているが,その最大の特色は調和的気質,均衡の性格にある。感情表出は抑制され,感情は優雅さとユーモアを交えてロマン的な微光として輝き出ているのであるが,のちの人々はこれを感傷主義と呼んだ。
執筆者:国安 洋
ドイツのユダヤ人啓蒙哲学者。デッサウのゲットーに生まれ,少年時にベルリンに出て,苦学力行の末,ユダヤ人として初めてドイツ語で著作し,ヨーロッパで名声を得た。いわゆる〈同化〉ユダヤ知識人第1号である。レッシングの盟友となり,彼の《賢者ナータン》のモデルともなった。ユダヤ人解放の先頭に立ち,ユダヤ人啓蒙のためのドイツ語教育学校を興し,同時にユダヤ伝統文化遺産の継承を重視してヘブライ語復興の〈ハスカラー(啓蒙)〉運動を東欧全域に広め,ユダヤ人近代化とドイツ文化の懸橋役を実践して〈近代ドイツ系ユダヤ人の父〉とも仰がれるが,この〈同化〉開拓の道は毀誉褒貶半ばする運命をたどる。旧約聖書のモーセ五書のドイツ語訳業をはじめ,宗教哲学,美学の著作が多く,膨大な全集が現在ようやく刊行中である。長女ドロテアはロマン派文学の理論家フリードリヒ・シュレーゲルと結婚,音楽家F.メンデルスゾーンは孫に当たる。
執筆者:山下 肇
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1809~47
ドイツの作曲家。古典派とロマン派を調和させた様式美を持ち,洗練された感情が控え目に盛られている。17歳ですでに「真夏の夜の夢序曲」をつくり,交響曲5,協奏曲,ピアノ曲など多数作曲。
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…第7番(従来の番号付では第8番)《未完成》(1822)と第8番(同じく第7番ないし第9番)《ザ・グレート》(1828)では,トロンボーンが定着し,規模も拡大されて,後のブルックナーを思わせるような息の長い呼吸が認められる。 その他,初期ロマン派交響曲では,メンデルスゾーン(初期の弦合奏主体の13曲と,1824‐42の5曲)とシューマン(未完とスケッチのほか,1841‐51の4曲)が重要である。メンデルスゾーンは第3番《スコットランド》(1842),第4番《イタリア》(1833)をはじめ,標題音楽的な雰囲気と色彩豊かな管弦楽法を特徴とする。…
…幻想的でロマンティックな雰囲気によって古来最も愛されてきた喜劇であるが,最近は人物の動きに意識深層の欲望のうごめきを見たり,劇中劇的ドラマ構造の特性を強調したりする批評家,演出家もある。【笹山 隆】 なお,この戯曲の付随音楽として,多くの作曲家が作曲しているが,最も有名なのはメンデルスゾーンの《序曲》(作品21,1826)である。これは古典的ソナタ形式を自由に変化させたのびやかな様式からなり,幻想的で妖精たちの戯れをみごとに表現している。…
…他方19世紀には,作曲家と演奏家が協力し合い,高度な演奏効果と作曲家の個人様式の追求を調和させることに成功した例も少なくない。メンデルスゾーンの《バイオリン協奏曲》にはダーフィトFerdinand David(1810‐73)が協力し,J.ヨアヒムのためには,シューマン,ブルッフ,ブラームス,ドボルジャークなどが優れた協奏曲を書いている。高度の名人芸を優れた音楽性に結びつけようとした19世紀後半のバイオリン曲には,同時代の名演奏家P.deサラサーテにささげられたE.ラロの《スペイン協奏曲》(1873)やサン・サーンスの《バイオリン協奏曲第3番》(1880),またソナタとしては,ブラームスの3曲(1879,86,88),ベルギーの名手E.A.イザイエにささげられたC.フランクの傑作(1886),ノルウェーの抒情性に富んだE.グリーグの第3番(1887)などがあり,今日の演奏会の重要な曲目を形成している。…
…全体は2部68曲から成り,十字架の預言,最後の晩餐,ゲッセマネの祈り,捕われ,裁判,ゴルゴタの丘,死と埋葬などの場面が,福音朗読者(テノール)の朗唱を中心として,劇的な合唱や内省的なアリア,また味わい深いコラールによって感動的に描かれ,キリスト受難の意味を鋭く問いかける。1829年にメンデルスゾーンがJ.S.バッハの死後初めて演奏し,J.S.バッハ復活の端緒をつくったことも重要である。J.S.バッハ以外ではシュッツの曲(1666)が名高い。…
…世紀後半には他の諸国の貢献も強まる。おもな大作曲家を挙げれば,ベートーベンとシューベルトを視野におさめながら,C.M.vonウェーバー,メンデルスゾーン,シューマン,ショパン,ベルリオーズ,リスト,R.ワーグナーらが代表的存在である。ベートーベンとシューベルトはロマン的要素を有しながら,全体としては古典派に入れられる。…
…ゲーテ,シラー,カント,フィヒテらを攻撃したため,頑迷な啓蒙主義者と見られがちであるが,啓蒙主義の指導的な雑誌の刊行者,ベストセラー作家,批評家としてその多面的な活動は,ドイツ18世紀文化史に大きな足跡を残した。レッシングやM.メンデルスゾーンの助けをえて,ベルリンの啓蒙主義運動の組織者として活躍し,文化の媒介者の役割を果たした。【岩村 行雄】。…
…その影響下に,ユダヤ人世界においては,ハスカラーと呼ばれる啓蒙主義運動が起こった。カントと並ぶ当代最大の哲学者として尊敬されたM.メンデルスゾーンを精神的父と仰ぐユダヤ人啓蒙主義者は,ユダヤ人固有の文化を捨ててヨーロッパの世俗文化を学ぶことが,中世以来の社会的差別からユダヤ人を解放する前提であると考えた。19世紀に,民族主義に基づく近代国家が成立すると,彼らは,ユダヤ教の伝統的教義である民族と宗教の間の不可分な関係を否定する〈改革派ユダヤ教〉を創設した。…
… ヨーロッパのユダヤ教徒に呈示されたこの新たな道は,彼らに衝撃的な作用を及ぼした。M.メンデルスゾーンを先駆とし,ユダヤ教徒の側から積極的に近代ヨーロッパ文化を吸収しようとするユダヤ教徒啓蒙運動は,ここに一気にその花を開き,数世紀にわたり伝統的なラビの支配のもとにあったユダヤ教徒を,近代ヨーロッパの社会と文化のいぶきに触れさせ,彼らの貪欲なまでの知識欲を刺激した。ユダヤ教改革の運動が起こると同時に,それまでユダヤ教徒に対し,宗教,教育,裁判における独占権を確保してきたラビは,それだけいっそうかたくなに伝統的な教義に固執しようとした。…
…すなわち,近世のユダヤ哲学の特色は,中世のそれと異なり,ユダヤ教の特殊性を排除し,それを普遍的な理性原理の上に確立することにあった。その最初の代表的な哲学者がM.メンデルスゾーンである。彼の後継者はドイツ観念論の哲学のなかにユダヤ教との思想的一致を見いだしている。…
…前者に属するのは,ドイツの広範な読者層にウォルフ哲学を広げることに貢献したチューミヒLudwig Philipp Thümmig(1697‐1728),ビルフィンガーGeorg Bernhard Bilfinger(1693‐1750)やドイツ美学の創始者と目されるバウムガルテンおよびその弟子マイヤーGeorg Friedrich Meier(1718‐77)などであるが,とりわけバウムガルテンはウォルフによってほとんど扱われなかった美学の領域に関してウォルフの体系を補完した。後者に属する人々としてはライマールスHermann Samuel Reimarus(1694‐1768),M.メンデルスゾーン,J.H.ランバートなどが挙げられる。ランバートはウォルフ的合理論とロック的経験論の融和統一をはかった。…
※「メンデルスゾーン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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