メンデルスゾーン)(読み)めんでるすぞーん(英語表記)Felix Mendelssohn (-Bartholdy)

日本大百科全書(ニッポニカ) 「メンデルスゾーン)」の意味・わかりやすい解説

メンデルスゾーン(Felix Mendelssohn (-Bartholdy))
めんでるすぞーん
Felix Mendelssohn (-Bartholdy)
(1809―1847)

ドイツの作曲家。祖父はドイツのソクラテスとよばれた啓蒙(けいもう)主義哲学者モーゼス・メンデルスゾーン、父は銀行家アブラハム・メンデルスゾーンというユダヤの名門家系の出身である。2月3日ハンブルクで生まれたが、同市がフランス軍に占領されたため、1811年には一家はベルリンに移った。幼少より音楽、美術、文学に天分を発揮し、教養ある両親をはじめ、ベルリンの優れた芸術家、学者たちの指導を受け、才能は異例の早さで開花していった。16年にはキリスト教の洗礼を受け、そのことを明示するためにメンデルスゾーン・バルトルディとも名のった。19年以来作曲と音楽理論をツェルターに師事、バッハの対位法とモーツァルトの古典的様式を理想とした教育を受けた。21年ツェルターに連れられてワイマールのゲーテを訪問、以後5回の訪問によって多大な影響を受ける。25年にはパリを訪れ、ケルビーニの推薦によって職業音楽家としての道を選ぶことになるが、モシェレスロッシーニなどの音楽家との出会いもあった。

 若きメンデルスゾーンの思想に大きな影響を与えたのはジャン・パウル、シェークスピア、ゲーテだが、弦楽八重奏曲変ホ長調(1825)のスケルツォは『ファウスト』の「ワルプルギスの夜」に拠(よ)っており、シェークスピアへの傾倒は序曲『真夏の夜の夢』(1826)を生んだ。1829年弱冠20歳のメンデルスゾーンはバッハの『マタイ受難曲』をほぼ1世紀ぶりに復活上演し大成功を収め、その年のイギリス旅行の印象は序曲『フィンガルの洞窟(どうくつ)』(1830)、交響曲第3番「スコットランド」(1842)に結実した。翌30年のイタリア旅行は交響曲第4番「イタリア」(1833)を生んでいる。33年デュッセルドルフでのニーダーライン音楽祭で大成功を収めた彼は、同地の音楽監督の地位を得て、ゲーテの理想に従った劇場を設立したり、『メサイア』をはじめとするヘンデルオラトリオを上演し、その影響下にオラトリオ『聖パウロ』(1836)を作曲した。ピアノ曲集『無言歌』(1829~45)の多くもデュッセルドルフ市長ウォーリンゲンのサロンのために作曲されている。

 1835年ライプツィヒゲバントハウス管弦楽団の第5代指揮者に就任したメンデルスゾーンは、同市の音楽生活を一躍ドイツの中心的存在にまで高めた。バッハをはじめとする古い音楽の紹介とともに、同時代者の作品の演奏に献身的な努力を惜しまなかった。こうしてシューマン、ニールス・ガーゼベルリオーズの作品が紹介され、39年にはシューマンによって発見されたシューベルトの交響曲ハ長調「グレート」が初演された。自らは演奏に直接加わらず指揮棒のみを用いるという、近代指揮法を確立したのも彼の功績であった。なお、39年にはフランクフルトで同地のフランス系改革派教会の牧師の娘セシル・シャルロット・ソフィア・ジャンルノーと結婚し、幸福な家庭生活を送り、3男2女を得ている。

 1843年ライプツィヒ音楽院の設立に貢献したことも忘れてはならない。彼は自ら院長を務めたが、聖トマス教会合唱長のモーリツ・ハウプトマン(和声学、対位法)、シューマン(ピアノ、作曲)、フェルディナント・ダーフィト(バイオリン)、カール・フェルディナント・ベッカー(オルガン、音楽史、理論)といった当代一流の音楽家を教授陣に迎えることに成功したのも彼の手腕によるところが大きい。ライプツィヒに本拠を置きながらもデュッセルドルフ、ロンドン、ベルリンなど各地で指揮者として、さらにはピアノやオルガンの名演奏家としての活躍を続けたが、47年5月に姉のファニー・ヘンゼルが急死したショックから健康を害し、同年11月4日にライプツィヒで世を去っている。晩年の名作としてバイオリン協奏曲ホ短調(1844)、オラトリオ『エリア』(1846)がある。

[樋口隆一]

『H・クッファーバーグ著、横溝亮一訳『メンデルスゾーン家の人々――三代のユダヤ人』(1985・東京創元社)』


メンデルスゾーン(Moses Mendelssohn)
めんでるすぞーん
Moses Mendelssohn
(1729―1786)

ドイツ啓蒙(けいもう)時代の哲学者で、ライプニッツ・ウォルフ学派の一人。ドイツ東部デッサウの貧しいユダヤ人の子として生まれる。神の存在や霊魂不滅の証明に力を注ぎ、これこそが哲学の究極的課題であるとした。ベルリン・アカデミーが1763年に形而上(けいじじょう)学的真理の判明性に関する論文を募集したところ、彼がカントを抑えて首位を得た。道徳哲学の確立に努め、信仰の自由を主張するなど、啓蒙時代の代表者らしい活動ぶりであったが、ウォルフよりもさらに通俗的と評されている。著名な音楽家メンデルスゾーンは彼の孫。

[武村泰男 2015年4月17日]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「メンデルスゾーン)」の意味・わかりやすい解説

メンデルスゾーン
Mendelssohn(-Bartholdy), (Jakob Ludwig) Felix

[生]1809.2.3. ハンブルク
[没]1847.11.4. ライプチヒ
ドイツの作曲家,指揮者,ピアニスト。哲学者 M.メンデルスゾーンの孫でユダヤ系の富裕な家庭に育ち,1811年に家族とともにベルリンに移住。 18年に同地でピアニストとしてデビューし,21年にはワイマールでゲーテと知合った。 26年に序曲『夏の夜の夢』を作曲,29年には J.S.バッハの死後初めて『マタイ受難曲』を指揮,その後イギリスをはじめヨーロッパ各地を演奏旅行し,33年にはジュッセルドルフ市楽長,35年にはライプチヒのゲバントハウス管弦楽団の指揮者となり,43年に R.シューマンらとともにライプチヒ音楽学校を設立。古典主義的ロマン派の作曲家として名声を博した。主作品は交響曲5曲,演奏会用序曲『フィンガルの洞窟』 (1830) ,ピアノの『無言歌』 (30) ,『バイオリン協奏曲ホ短調』 (44) ,オラトリオ『エリア』 (46) 。

メンデルスゾーン
Mendelssohn, Moses

[生]1729.9.26. デッサウ
[没]1786.1.4. ベルリン
ドイツのユダヤ人哲学者。作曲家 F.メンデルスゾーンの祖父。 1754年にレッシングと出会い,生涯の友となった。レッシングの『賢者ナータン』は彼をモデルにしたといわれる。カントとも文通した。ユダヤ人のドイツ市民社会への融合を主張。神学的には理神論に立ち,信仰の自由を説いた。哲学的には,J.ズルツァーと同様に,感情の働きの独立性を認め,のちの J.テーテンスによる精神活動の知情意三分法に先行した。主著『感覚について』 Briefe über die Empfindungen (1755) ,『ファイドン-霊魂の不滅について』 Phädon oder über die Unsterblichkeit der Seele (67) 。

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