河野鷹思(読み)コウノ タカシ

20世紀日本人名事典 「河野鷹思」の解説

河野 鷹思
コウノ タカシ

昭和・平成期のグラフィックデザイナー,舞台美術家 愛知県立芸術大学名誉教授。



生年
明治39(1906)年3月21日

没年
平成11(1999)年3月23日

出生地
東京・神田

本名
河野 孝

学歴〔年〕
東京美術学校図案科〔昭和4年〕卒

主な受賞名〔年〕
勲四等旭日小綬章〔昭和51年〕,勲三等瑞宝章〔平成4年〕

経歴
昭和4年松竹キネマ入社。演劇、映画の美術、舞台監督、ポスターデザインを手がけ、11年松竹退社。35年デザイン事務所デスカ設立。37年女子美術大学教授を経て、41年愛知県立芸術大学開設の時講師となり、43年教授。48年定年後は客員教授を務め、58年12月〜平成元年学長を務める。商業デザインの草分けの一人で、札幌オリンピックのポスター、万国郵便連合100年記念切手、大阪万博日本政府館の展示デザインなどを手がけ、日本的な繊細さと西洋的なデザインを調和させた作風を確立させた。58年11月ロンドンのロイヤルソサエティ・アーツから日本人としては初めて、ロイヤルデザイナーフォアインダストリーのメンバーに選ばれた。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

百科事典マイペディア 「河野鷹思」の意味・わかりやすい解説

河野鷹思【こうのたかし】

グラフィック・デザイナー。東京生れ。昭和期を通じて日本のグラフィック・デザイン界の隆盛に大きく貢献した。1924年東京美術学校図案科卒。松竹に入社し広告制作に携わる。1934年日本工房に参加し,対外宣伝誌《NIPPON》のデザインを担当。1941年に軍に徴用され,翌年よりジャカルタ駐在,宣伝活動に当る。戦後,新東宝撮影所の美術監督や《New Japan》のアートディレクターを務め,1957年にはデザイン事務所〈デスカ〉を設立。1960年の世界デザイン会議のシンボルマークをデザインしたほか,ニューヨーク万博(1964年)の日本館,大阪万博(1970年)の日本館の展示設計を担当した。
→関連項目福田繁雄

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「河野鷹思」の解説

河野鷹思 こうの-たかし

1906-1999 昭和-平成時代のグラフィックデザイナー。
明治39年3月21日生まれ。昭和4年松竹キネマにはいり,宣伝,舞台装置を担当。9年日本工房にうつり,雑誌「NIPPON」の表紙を手がける。26年亀倉雄策らと日本宣伝美術会を創立。女子美大教授,愛知県立芸大学長をつとめる。平成11年3月23日死去。93歳。東京出身。東京美術学校(現東京芸大)卒。本名は孝。

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367日誕生日大事典 「河野鷹思」の解説

河野 鷹思 (こうの たかし)

生年月日:1906年3月21日
昭和時代;平成時代のグラフィックデザイナー;舞台美術家。愛知県立芸術大学教授
1999年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の河野鷹思の言及

【ポスター】より

橋口五葉,杉浦非水(1876‐1965)などがアール・ヌーボー風のポスターを描き,グラフィック・デザインの新しい歴史を切り開く。1920年代に入ると村山知義,柳瀬正夢の構成主義的なポスターや山名文夫(あやお)(1897‐1980),河野鷹思(こうのたかし)(1906‐ )などのモダニズム系のポスターが目だつようになる。30年代に入ると,名取洋之助を中心として結成された〈日本工房〉がドイツの写真やデザインをとり入れてグラフィック・デザインを試み,第2次大戦後の日本におけるモダン・デザインの一つの起点となった。…

※「河野鷹思」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」