塩冶郷(読み)えんやごう

日本歴史地名大系 「塩冶郷」の解説

塩冶郷
えんやごう

鎌倉時代からみえる郷名。「出雲風土記」の旧塩冶やむや郷と旧日置へき郷を含む範囲で、現在の出雲市塩冶町・上塩冶町・今市いまいち町・大津おおつ町・高岡たかおか町・荻杼おぎとち町・外園そとぞの町・西園にしぞの町・東園町・荒茅あらかや町に相当する地域と推定される。郷内に神東じんとう村・大津村・杼島とちじま村・荻原おぎはら村・高岡村・その村の六ヵ村が確認でき、塩冶八幡宮をはじめ桑日くわにち八幡宮・しん八幡宮・妙見社などが各村に勧請され、また杵築大社(出雲大社)・日御崎社(日御碕神社)鰐淵がくえん寺など近隣有力社寺の神田・寺田も存在した。中世の塩冶郷は斐伊川神戸かんど川が最初に接近してから日本海に注ぐまでの下流域一帯に相当し、出雲国屈指の穀倉地帯であり河川交通を通して山間部と沿岸部とを結ぶ流通上の拠点でもあった。とりわけ水運の発達した中世後期になると、出雲国内における最大級の経済的要地になっていたと考えられる。平安末期から鎌倉初期にかけては朝山氏が支配していたが、建長元年(一二四九)六月日の杵築大社造営所注進状(北島家文書)の流鏑馬一五番の二番に「守護所隠岐二郎左衛門尉源泰清」とみえ、一三世紀中葉には当郷に出雲国守護所が置かれ、佐々木氏の支配に移ったらしい。文永八年(一二七一)一一月日の杵築大社三月会相撲舞頭役結番帳に「塩冶郷百一丁六反三百歩同人」とある。「同人」とは出雲国守護信濃前司佐々木泰清で、その子頼泰は旧日置郷の地に大廻おおさこ城を築いて本拠としたといわれ、以後塩冶氏を称する。


塩冶郷
やむやごう

和名抄」所載の郷で、同書高山寺本・東急本に塩治、元和古活字本に塩沼とあるが、名博本と「出雲国風土記」に塩冶郷とある。同書には止屋・夜牟夜社とあることより、訓はヤムヤであろう。のち表記にひかれてエンヤとなり、遺称地である中世の塩冶郷や江戸時代の上塩冶かみえんや(現出雲市)などはエンヤと考えられ、現在に至る。「日本書紀」崇神天皇六〇年七月一四日条に止屋の淵がみえ、出雲振根(出雲臣の遠祖)朝廷の要求で神宝を献上した弟の飯入根を欺いてここに誘い、謀殺したという。風土記によれば、神門郡八郷の一つで、郡家の北東五里に郷長の家があり、地名は塩冶毘能命(阿遅須枳高日子命の子)が当地にいたことに由来し、初め止屋であったが、神亀三年(七二六)塩冶に改めたとある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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