萬屋錦之介(読み)ヨロズヤ キンノスケ

新撰 芸能人物事典 明治~平成 「萬屋錦之介」の解説

萬屋 錦之介
ヨロズヤ キンノスケ


職業
俳優

本名
小川 錦一

別名
前名=中村 錦之助(ナカムラ キンノスケ)

生年月日
昭和7年 11月20日

出生地
東京都 港区青山

学歴
暁星中卒

経歴
父は歌舞伎俳優・3代目中村時蔵で、10人きょうだい(5男5女)の四男。昭和11年3歳で中村錦之助を名乗り、「厳島招桧扇」の清盛の童の役で初舞台を踏む。子役時代は才気あふれる演技が注目され、伯父である初代中村吉右衛門の芝居にもたびたび出演。暁星中学卒業後は父の芸風を受け継ぎ、「鏡山旧錦絵」のお初役などを好演して若手女形のホープとして期待された。のち立ち役に転向するが、すでに2人の兄が歌舞伎俳優となっており、長幼の序が重んじられる歌舞伎界ではなかなか良い役が与えられなかった。28年歌舞伎座舞台「明治零年」で島田魁を演じた際、その演技がかねてから娘・美空ひばりの映画の相手役を探していた加藤喜美枝の眼に止まり、29年内出好吉監督のひばり映画「ひよどり草紙」の美少年剣士・筧耀之助役で映画デビュー。同年東映と契約を結び、「笛吹童子」「里見八犬伝」「新諸国物語 紅孔雀」などの出演作が軒並みヒットし、東千代之介と並ぶスターとなった。その後、オールスター映画「任侠清水港」や内田吐夢監督の大作「大菩薩峠」などでアイドルから演技派俳優へと脱皮を図り、沢島忠監督の〈一心太助〉シリーズや内田監督〈宮本武蔵〉シリーズが当たり役となってからは「風雲児織田信長」「親鸞」「瞼の母」などスターの第一線を歩み、東映時代劇の黄金時代を築いた。36年「反逆児」で時代劇映画としては初の芸術祭賞を、39年には今井正監督「武士道残酷物語」でブルーリボン主演男優賞を受賞。一方で舞台にも出演し、39歌舞伎座で父、次兄・4代目時蔵の追善興行を行った。40年東映俳優クラブ組合代表となり、俳優の待遇改善を会社に訴えるが失敗。41年東映専属から年4本の優先契約に切り替えたのを経て、フリーとなる。同年NET「暗闇の丑松」でテレビ時代劇ドラマに初登場。42年自主映画「祇園祭」を制作するため、日本映画復興協会を設立して自ら代表取締役に就任、様々な紆余曲折ののち、京都府・京都市や府民の協力によって完成した同作は大ヒットとなった。43年中村プロダクションを創立してからは大映、東宝などの映画に出演する一方、「真田幸村」「破れ傘刀舟」「破れ奉行」「破れ新九郎」「子連れ狼」「長崎犯科帳」などのテレビ時代劇を製作・出演。46年父の母方の家が営んでいた芝居茶屋にちなんで屋号を“播磨屋”から“萬屋”に改め、47年それにともなって芸名を萬屋錦之介に改名。53年時代劇復興の旗印にした「柳生一族の陰謀」の柳生但馬守役で7年ぶりに東映作品に出演、作品もヒットしベテランの貫祿を示した。その後も映画、テレビ、舞台と精力的に活動するが、57年中村プロダクションが倒産。同年6月には歌舞伎座公演中に重症筋無力症に倒れ、休養を余儀なくされた。手術成功後の58年、「子連れ狼」でテレビに、60年「御存じ一心太助」で舞台に復帰。61年には舞台「春秋千姫絵巻」で久々に美空ひばりと共演し、話題となった。平成元年、8年ぶりに本格的時代劇映画「本覚坊遺文 千利休」に出演。3年ドラマ「雲霧仁左衛門」で主演。6年には「春の坂道」以来22年ぶりにNHK大河ドラマ「花の乱」にレギュラー出演し、山名宗全役を好演するなど、晩年も圧倒的な存在感を持ち続けた。8年中咽頭がんの手術を受け、NHK大河ドラマ「毛利元就」の尼子経久役を降板。昭和36年女優の有馬稲子と結婚し、40年離婚、41年淡路恵子と再婚したが、62年再び離婚。平成2年甲にしきと入籍した。

受賞
ブルーリボン賞(大衆賞 昭33年度)「一心太助」シリーズ,ブルーリボン賞(主演男優賞 昭38年度)「武士道残酷物語」,日本放送作家協会賞(男性演技者賞 昭42年度)「真田幸村」,京都市民映画祭主演男優賞(5回)

没年月日
平成9年 3月10日 (1997年)

家族
妻=甲 にしき(女優),祖父=中村 歌六(3代目),父=中村 時蔵(3代目),兄=中村 歌昇(2代目),中村 時蔵(4代目),小川 三喜雄(映画プロデューサー),弟=中村 嘉葎雄,長男=小川 晃広(俳優),二男=萬屋 吉之亮(俳優)

親族
伯父=中村 吉右衛門(初代),叔父=中村 勘三郎(17代目)

伝記
スタアの花咲く昭和時代〈2〉昭和30年〜40年編―近代映画社創立62周年記念出版 復刻・保存版鬼平犯科帳人情咄―私と「長谷川平蔵」の30年映画俳優ひばり裕次郎 昭和の謎スター誕生―ひばり・錦之助・裕次郎・渥美清そして新・復興期の精神親父の涙萬屋錦之介―淡路恵子特別インタビュー「映画ファン」スタアの時代中村錦之助 東映チャンバラ黄金時代 Kindai 特別編集高瀬 昌弘 著佐藤 忠男 著吉田 司 著吉田 司 著島 英津夫 著渡部 保子 著錦之介映画研究会 編(発行元 近代映画社文芸春秋晶文社講談社講談社集英社筑波書房ワイズ出版 ’07’03’03’03’99’99’98’97発行)

出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報

20世紀日本人名事典 「萬屋錦之介」の解説

萬屋 錦之介
ヨロズヤ キンノスケ

昭和・平成期の俳優



生年
昭和7(1932)年11月20日

没年
平成9(1997)年3月10日

出生地
東京・青山

本名
小川 錦一

別名
旧芸名=中村 錦之助(ナカムラ キンノスケ)

学歴〔年〕
暁星中卒

主な受賞名〔年〕
ブルーリボン賞(大衆賞 昭33年度)「一心太助」シリーズ,ブルーリボン賞(主演男優賞 昭38年度)「武士道残酷物語」,日本放送作家協会賞(男性演技者賞 昭42年度)「真田幸村」,京都市民映画祭主演男優賞(5回)

経歴
歌舞伎俳優3代中村時蔵の四男。3歳で中村錦之助を名乗り初舞台を踏み、若手女形のホープとして期待される。昭和29年東映に入社し「ひよどり草紙」で映画界にデビュー。「笛吹童子」「紅孔雀」などで一躍トップスターとなる。その後も「一心太助」シリーズ、「織田信長」「宮本武蔵」「反逆児」「武士道残酷物語」などスターの第一線を歩み、東映時代劇の黄金時代を築いた。41年東映を離れフリーとなる。以後「真田幸村」「破れ傘刀舟」「子連れ狼」「長崎犯科帳」などテレビに出演する。47年萬屋錦之介に改名。53年時代劇復興の旗印にした「柳生一族の陰謀」で10年ぶりに東映出演、ベテランの貫祿を示した。57年オーナーを務める中村プロが倒産し、病いにも倒れるという二重の不運に見舞われたが、筋無力症の手術に成功し、58年TV「子連れ狼」でカムバック。平成元年8年ぶりに本格的時代劇「千利休」に出演、3年にはドラマ「雲霧仁左衛門」で主演。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

百科事典マイペディア 「萬屋錦之介」の意味・わかりやすい解説

萬屋錦之介【よろずやきんのすけ】

俳優。東京都生れ。本名小川錦一。歌舞伎の3世中村時蔵の四男。1936年に中村錦之助の名で初舞台。しかし,1954年に《ひよどり草紙》で映画デビュー,当時の歌舞伎界には歌舞伎と映画の両方での活動を認めないという風潮があり,歌舞伎の道を断念した。《笛吹童子》や《紅孔雀》などで東映時代劇スターとして〈錦ちゃんブーム〉を起こし,《宮本武蔵》5部作や《反逆児》《武士道残酷物語》《風林火山》などで重厚な演技を見せた。1968年に中村プロダクションを設立し,テレビ時代劇の世界に進出。1972年に萬屋錦之介と改名し,翌1973年から放送が開始されたテレビ番組《子連れ狼》などで人気を博した。《子連れ狼》では,萬屋が演じる主人公の拝一刀(おがみいっとう)を息子の大五郎が〈ちゃん〉と呼び,そのセリフが当時の話題をさらった。なお,初婚の妻は女優の有馬稲子(いなこ)で,再婚は同じく女優の淡路恵子,再々婚は宝塚男役の甲にしき。→時代劇映画

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「萬屋錦之介」の意味・わかりやすい解説

萬屋錦之介
よろずやきんのすけ
(1932―1997)

俳優。東京都生まれ。本名小川錦一。歌舞伎俳優3代目中村時蔵の四男で、1936年(昭和11)4歳のとき中村錦之助の芸名で初舞台を踏んだ。1953年映画に転向し『ひよどり草紙』でデビュー。以後、『笛吹童子』『里見八犬伝』『紅孔雀(べにくじゃく)』などが大ヒットし、スターの座を確立した。テレビ時代劇では『子連れ狼(おおかみ)』で主役を演じ高視聴率を上げた。1972年芸名を萬屋錦之介に改名。1982年自ら設立した中村プロダクションが倒産、重症筋無力症に襲われたが、1983年末のテレビ『子連れ狼』で奇跡的に復帰した。最後の映画は1989年の『千利休 本覺坊遺文』。1958年『一心太助』シリーズなどでブルーリボン賞大衆賞、1961年『反逆児』で芸術祭賞、1963年『武士道残酷物語』でブルーリボン賞主演男優賞を受賞。1997年(平成9)3月10日没。

[編集部]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「萬屋錦之介」の意味・わかりやすい解説

萬屋錦之介
よろずやきんのすけ

[生]1932.11.20. 東京
[没]1997.3.10. 千葉,柏
映画俳優。本名小川錦一。歌舞伎俳優の3世中村時蔵の4男で 1936年,中村錦之助の芸名で初舞台。 54年新芸プロの『ひよどり草紙』に出演後,東映と契約。『笛吹童子』 (1954) ,『紅孔雀』 (54~55) などで人気を博し,59年ブルーリボン大衆賞を受賞。『宮本武蔵』5部作 (61~65) や『武士道残酷物語』 (63,ブルーリボン主演男優賞受賞) などにも主演。 72年,芸名を萬屋錦之介と改名し,以降は『子連れ狼』 (73~74) などテレビでも活躍した。

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367日誕生日大事典 「萬屋錦之介」の解説

萬屋 錦之介 (よろずや きんのすけ)

生年月日:1932年11月20日
昭和時代;平成時代の俳優
1997年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の萬屋錦之介の言及

【伊藤大輔】より

…戦後は阪東妻三郎主演の《素浪人罷通る》(1947),《王将》(1948)からキャリアをスタートさせた。《反逆児》(1961)で中村錦之助(のち萬屋錦之介)を,〈錦ちゃん〉の愛称で親しまれたアイドルスターから演技力と格調をそなえた大スターに仕立て上げた功績もあり,晩年は(とくに1970年の《幕末》を最後に映画から遠ざかってからは)錦之介主演で舞台化した《反逆児》を中心に,もっぱら舞台劇の脚本と演出に力を注いだ。著書に加藤泰編《時代劇の詩と真実》(1976)。…

【日本映画】より

…(1)長谷川一夫(1948‐52)(2)鶴田浩二(1952‐53)(3)山村聡(1952‐65)(4)岸恵子,久我美子,有馬稲子の〈にんじんくらぶ〉(1954‐66)(5)三船敏郎(1962‐ 。東京世田谷成城)(6)石原裕次郎(1963‐ )(7)三国連太郎(1963‐65)(8)勝新太郎(1967‐ )(9)中村錦之助(のち萬屋錦之介)(1968‐ )
【時代劇と現代劇】

[サイレント映画の頂点――時代劇の全盛時代]
 日本映画は1920年代後半,量産時代に入り,年間650本ほどの作品がつくられるようになった。まだサイレントの時代であり,全盛期には7000人の弁士がいたという。…

【反逆児】より

…1961年東映作品。〈時代劇の巨匠〉伊藤大輔監督と俳優・中村錦之助(のち萬屋錦之介,1932‐97)の出会いの作品で,同監督の戦後の代表作となるとともに,錦之助を第一線の時代劇スターにした名作。錦之助は,すでに内田吐夢監督《大菩薩峠》三部作(1957‐59),《浪花の恋の物語》(1959),《宮本武蔵》五部作(1961‐65),河野寿一監督《独眼竜政宗》《風雲児・織田信長》(ともに1959),田坂具隆監督《親鸞》二部作(1960)などで,〈錦ちゃん〉の呼名で親しまれたチャンバラ・スターから脱皮して演技派への転身の意欲を見せていたが,この伊藤大輔監督作品で,折り目正しい重厚な演技と凜々(りんりん)とした発声法を身につけて,〈芸のともなった〉貫禄ある大スターに成長する決定的な転機をつくり,《丹下左膳》の大河内伝次郎,《王将》の阪東妻三郎とならんで,伊藤大輔が育てた三大スターとみなされるに至った。…

※「萬屋錦之介」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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