江戸後期の旗本。幼名銕三郎(てつさぶろう)、諱(いみな)は宣以(のぶため)。火付(ひつけ)盗賊改(あらため)役(火盗改(かとうあらため))長谷川宣雄(のぶお)の子。1773年(安永2)父の死にあい小普請組(こぶしんぐみ)入りするが、当時の平蔵は「本所の銕」とよばれるほどの放蕩(ほうとう)ぶりであった。しかし、翌年江戸城西の丸書院番士となって以降は順調に昇進し、86年(天明6)に先手弓頭(さきてゆみがしら)、その翌年には火盗改の加役(かやく)を命ぜられた。また平蔵は、老中松平定信(さだのぶ)の命により、江戸市中の無宿人を収容して授産事業を行うための人足寄場建設を建議している。90年(寛政2)には人足寄場取扱を命ぜられるが、2年後に罷免、95年の死まで火盗改役に専念した。晩年は、賞罰の公正さにより世人から「今(いま)大岡」(名奉行(ぶぎょう)大岡越前守(えちぜんのかみ)忠相(ただすけ)の再来)と称されたという。近年、火盗改役としての彼の活躍は、池波正太郎の『鬼平(おにへい)犯科帳』などで有名だが、父宣雄の業績と混同されているものが少なくない。法名海雲院殿光遠日耀居士。四谷(よつや)の戒行寺に葬られたが、墓石は現在伝わらない。
[馬場 章]
『瀧川政次郎著『長谷川平蔵――その生涯と人足寄場』(1975・朝日新聞社)』
江戸幕府の役人。諱(いみな)は宣以(のぶため)。老中松平定信の下で人足寄場を創設した。平蔵宣雄(後の京都町奉行)の嫡子として生まれ,西丸書院番を経て1786年(天明6)先手弓頭,翌年火付盗賊改加役を命ぜられる。89年(寛政1)定信が無宿人対策のため,数年前存在した無宿養育所に類する施設の開設を発案したとき,平蔵はみずからその任を引き受けることを申し出て具体案を上申し,定信とともにプランを作成した。翌年2月正式に人足寄場取扱を命ぜられ3ヵ月弱で施設を完成,収容者に生活を賄うに足る収入の得られる作業を与え,寛厳要を得た取扱いによって彼らの更生に努めた。乏しい予算の中で短期間に寄場の基礎を固め,運営を軌道に乗せたのは,彼ならではの功績であった。しかし奇計の人ともいわれた彼の人柄は定信と必ずしも相いれず,わずか2年半後の92年に人足寄場取扱の任を解かれ,以後火付盗賊改としての職務に専念した。犯罪人逮捕および裁判の面でも,敏腕をうたわれている。
執筆者:林 由紀子
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(針谷武志)
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…のち実質上,近代的自由刑の原初的形態たる性格をもつに至った。 老中松平定信が,1780年(安永9)ごろ数年間のみ存在した南町奉行所の無宿養育所の先例などをヒントに,無宿収容施設の開設を発案し,これに対して火付盗賊改長谷川平蔵宣以(のぶため)がみずから実施を申し出,両者の間で具体案が練られたのち,平蔵が創設の業務にあたった。当初寄場に収容されたのは,まったく犯罪を犯したことのない無罪の無宿,および入墨などの刑を受けた前科のある無宿である。…
…無宿人が江戸などの都市およびその近在に多数徘徊し,社会不安を起こすようになったのは18世紀後半の田沼時代からで,幕府は1778年(安永7)無宿人を捕らえて再犯のおそれある者は懲らしめのため佐州水替人足(佐渡金山の水替人足)に使役することを始め,以来数次にわたり長崎,大坂などの無宿を含めて佐渡送りにしている。また1790年(寛政2)には火付盗賊改長谷川平蔵の建議によって,無罪の無宿人に生業を与えて更生させるための施設として江戸佃島に人足寄場(にんそくよせば)を設け,油絞りなどの手業を習役労働させ,身元引受人さえあれば出所を許した。しかし,これらはいずれも対症療法としても手ぬるく,効果はほとんど上がらなかった。…
※「長谷川平蔵」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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